きみが教えてくれたこと
ある映画を見た。
その映画の中で、主人公は宇宙にあこがれていた。いつかあの空を突き抜けて、宇宙を旅したい。そう夢見て、ただひたすら勉強した。将来の夢は宇宙飛行士。友達に言ったらバカにされるとは思いつつも、彼はそれを言わずにはいられなかった。無理だ、とみんなに言われたが、諦めることはできなかった。
地道な努力は実り、十数年後、主人公は晴れて宇宙飛行士になる。
打ち出されたロケットに乗り、意気揚々と地球を去った彼は、しかし二度と地球には帰らなかった。
ロケットは行方不明になり、乗組員の消息は不明。
宇宙に輝く星の映像がゆっくりとフェードアウトし、そこで映画は終わる。
宇宙に行ったはずの彼らは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
もしかしたら、乗組員たちは地球ではない星に流れ着き、そこで幸せに暮らしているのかもしれない。
けれど、久保にはなぜか、そうは思えなかった。
きっと、その宇宙船は宇宙のどこかを今も、ふわふわと漂い――ゆっくりと塵になって行くのだろう。そう思った。
そこまで考えた久保は、映画館のいすから立ち上がる前に、泣いた。反射的にあふれた涙が、止まらなくなった。
理由はすぐにわかった。
主人公の宇宙への憧れは、そのまま、自分の彼への恋心のようだった。
もしも宇宙に意識が宿っていたとしても、宇宙は塵のことなんて考えていない。
宇宙の中を漂うだけの自分が、広大な宇宙にあこがれる気持ち。その感情は、どうやったって報われることはない。ただただ、悲しくなったり、嬉しくなったり、一人で感情を繰り返すだけの恋。もはや恋とは呼びがたいほど、虚しい恋。
自分の恋は、そんな恋なのだ。今まで知らなかったけれど、それが真実だ。
だから、自分はこんなにも泣きたい気持ちになるのだろう。
翌日、久保は暗欝な気持ちで明久に会った。彼に会いたくないと思ったのは初めてで、会いたくないのにもかかわらず、明久の方から会いに来られたのも初めてだった。
Aクラスの教室に堂々と入ってきた吉井明久は、久保の姿を見つけ、まっすぐに目を見て笑った。そして、そのまま久保の方へ歩いてくる。
「やっほー、久保君」
その無邪気な笑顔を見て、胸が締め付けられるような気がした。いつものように、どきどきしたり、幸せな気持ちになったりしない自分に、少し嫌気がさす。たかが映画を一つ見たくらいで――こんな風に沈み込むなんて、自分らしくない。久保は、できるだけいつもどおりに見えるように、笑顔を作ってこう言った。
「君がこの教室に来るなんて、珍しいね。何か用かな?」
「この間、久保君が勉強教えてくれたでしょ? お礼がしたいなーと思って」
「あ、ありがとう」
自分の声はひどくかすれていて、まるで病人みたいだ。思わず舌打ちをしたくなる衝動に駆られる。
そんな久保に気付かない明久は、
「どこかに、何か食べに行かない? あんまり高いものは買えないけど、ぼくが奢るよ」
と提案した。
「いいよ」
行きたくない、という意味で『いい』と言ったのか、了承するために言ったのか、自分でもわからなかった。ただ、両方の意味にとれる言葉であることは承知したうえで、そう口にしたのは間違いない。我ながらひどい打算だった。
しかし明久は後者の意味だと受け取ったようで、「じゃあ、放課後に校門前で」と大きく手を振って去って行った。
「久保君は、何が食べたい?」
商店街の中を二人で歩く。いつもなら、胸が高鳴るのがうるさくて何も言えなくなるはずのシチュエーションを、今日の久保利光は冷静に眺めていた。うわつかない気分で彼と過ごすのは初めてで、趣味の悪い奇跡みたいだ。次の瞬間に目が覚めてしまってもおかしくないほどに、妙な夢心地。明晰夢というやつかもしれない。
「久保君?」
名前を呼ばれて、はっとした。「ごめん、ぼんやりしてたよ」
「久保君は何が食べたいかな、って言ってたんだよ」
明久は嫌な顔一つせずに言葉を繰り返してくれた。やっぱり彼は優しいな、と思う。けれど、それはいつものようにふわふわとした感情ではなく、脳内で事実確認をしただけの冷たい作業だった。
「ぼくは、なんでもいいかな。あんまり外食とかしたことないし」
「そうなの? 久保君らしいね。ぼくもあんまりしないけど」
明久はそう言ってから、「まあ、しないっていうよりできないんだけどね」と付け加えた。たぶん、お金が足りないから無理だ、という意味なのだろう。
「吉井君の知ってるお店でいいよ」
いつまでたっても話が進まなさそうなので、そう進言してみた。
「ぼくの知ってるお店?――うーん、一か所しか思いつかないけど、そこでいいかな」
「ああ、そこでいいよ」
久保はそこまで話して、明久と普通に会話できている自分に、少し驚いていた。
そうか、気分が沈んでいれば、いつものようにテンパって失言をすることもないのか。
もしかすると、これはこれでいいのかもしれない――なんとなく、そんなことを考えた。
――周囲の視線が痛い、と思った。
明久に連れてこられた店は、クレープ屋だった。
男が二人で入るには、あまりにもファンシーすぎる内装だ。
他の客は女子高生ばかりだし、こちらを見てくすくすと笑っている気がする。
「ごめんよ、やっぱり嫌だったかな」
明久はそう謝ったが、久保は無表情に首を横に振る。
「いや、ぼくは別にかまわないよ」
普段の自分なら、もしかすると辞退していたかもしれない。お堅い学年次席が学校帰りにクレープを食べるなんて、あまりにもシュールだ。クラスの連中に見つかったら噂されかねない。
しかし今日の自分は少しなげやりで、消極的だった。なるようになればいい、と思っているかのようだ。
「久保君は、何食べる?」
「ブラウニー、がいいかな。吉井君は?」
「あ、ぼく、水で」
「…………ブラウニーはやめて、一番安い奴にするよ」
久保は眼鏡を押し上げつつ、自分のクレープすら買えない彼の財布の中身のことを思った。昨日とは違う意味で泣けそうだった。そんな貧乏な彼が、わざわざ自分から奢るなんて言い出したことは、とても貴いことである気がする。いつも、姫路瑞希たちに誘われて外食しているらしいことは聞いていたけれど、明久が彼女たちを自分から誘う、ということはあったのだろうか。久保には知りようもないことだが、気にはなる。
しばらくして、店員に手渡されたクレープはぽかぽかとあたたかくて、今の自分の心のひんやりとした感じとは対極だった。
クレープを食べ始めた久保は、目の前で水を飲んでいる彼にクレープを分け与えるべきか迷った。しかし、それは間接キスだ、と気付いて中止する。同級生の男子とクレープを分け合って食べるのははたしてノーマルなのか、それともどこか不自然なのか……そんなことは、同級生の男子とクレープ屋に来たことのない久保にわかるはずもない。
……そこまで考えて、自分が少しずつ、いつもどおりの自分に戻っていることに気付いた。
少なくとも、今朝からずっと明久に会いたくない、顔向けできない、と思っていた、その気持ちはもう消えている。
どうしようもなく暗く沈澱していた心の中の何かは、ちょっとずつ消え始めている。
「久保君、さ」
「ん?」
久保が視線をあげると、明久が真剣なまなざしでこちらを見ていた。
「何か、悩み事でもあるの?」
びっくりしすぎて、言葉が出なくなるかと思った。
「な、なんで?」
「あ、ごめん。失礼かもしれないけど、今日はちょっと元気ないみたいだから」
その言葉で、心の中にたまっていた黒いものが、漂白剤でも入れられたかのように一気に霧消した。
思わず笑みがこぼれてしまいそうに、なった。
彼が気付いてくれていた。
それだけで、なにもかも許せるような気持ちになる。
「いや、昨日――映画を見たんだ」
久保は、自然にそう口にしていた。そうして、ほとんど無意識に、映画のあらすじを語りだした。
引かれたらどうしよう、と一瞬思ったが、明久は黙って最後まで聞いていた。
「それで、なんかとても悲しくって。ただ、それだけだ」
その話が自分の恋に重なってしまって、泣いた――という部分だけは端折っておいた。
明久は、心底不思議そうに首をかしげて、久保の目を覗き込んだ。
「確かに、悲しいお話かもしれないけど、ぼくは、その主人公って幸せだったんじゃないかと思うな」
明久はそう言って、右手の人さし指をぴんと立てた。
「だって、宇宙はどこにもいかない。心底宇宙が好きなその人が、どこへ行ったとしたって、宇宙はちゃんと見ていてくれる。誰も見てくれなくなっても、宇宙はその人のことを忘れたりしないよ。いつまでだって、見守ってる」
涙がこぼれそうになった。
心の中にあったどす黒い何かが、完全に消滅するのを感じた。
ああ、やっぱり自分は彼のことが大好きで――彼は、宇宙だった。
どこにもいかない、いつでもそこにいる。
見守ってくれる――大きな大きな、空。
久保が黙っているせいか、明久は不安げな表情になった。
「なんか、ごめん。その映画を見てもいないのに、こんなこと言って。邪魔だったかな」
「いや、君のおかげで、今日は悲しい気持ちにならなくて済んだ」
久保は、顔をあげてにっこり笑った。初めて、まともに顔をあげて明久を見たような気がした。
「ありがとう」
そう口に出してみて、それだけでは感謝の気持ちに足りない気がして、もう一度同じ言葉を繰り返す。
その調子で一生分のありがとうを使いきってしまいそうになったが、二回目でなんとか踏みとどまった。
「ぼくも、その映画見てみたいなあ」
今度一緒に行く?とは言えず、久保は映画のタイトルだけを彼に伝えた。
「ありがと!」
明久も久保に習うように礼を言って、朗らかに笑んだ。
口の中に残る生クリームと同じくらいに――甘くて、やわらかな笑みだった。
100424
久保君らしからぬ久保君……というのを書きたかったんですが、なんか別人じみてしまった気がしないでもないです。