わたしは看護師。 昔の単語で表すなら、看護婦。 だからノックをしないで病室に入っても、多分いいのだと思う。 「ちぇんちぇ、新ちい洗面器持ってきまちた」 それはある夜遅くのこと。 一週間近く付きっきりの看病をしてきた患者さんの部屋に、わたしは突然入った。 その患者さんはそこそこの美人で、重症だった。先生とわたしが付きっきりで一週間も治療にかかっているのだから、かなりの重症患者だと言っていいと思う。意識はあるし、体を起こすこともできるけれど、いまだに歩くことができない。ずっと病室で過ごし続けている。 外科医に限らず医者という生きものは、患者と精神的にも肉体的にも密接・密着することを仕事としている。 つまり、誤解されやすいのである。 扉を開くと、まず眼に入ってきたのは、先生と患者さんだった。それは別に構わない。 問題なのは、ベッドの横の椅子に腰掛けた先生と、ベッドの上で上体を起こした患者さんが……キスしていたこと。 「なっ、……ピノコ」 先生が慌てた様子で患者さんを突き飛ばすようにして身を引く。その瞳に宿った後ろめたさの色を、わたしは見逃さない。 先生のばか。口に出さずにそう呟いて、わたしは洗面器を屠って部屋から逃げ出した。 「ピノコっ……待って」 背後から先生の声が聞こえる。振り返りたいという欲望を抑えて自室に入る。扉を閉め、鍵をかける。 こうなることは予測できた。 だって、うちの先生ときたら、かっこよくて、優しくて、ちょっとだけ素直じゃなくて。 暗い過去を背負っていてちょっぴり影があるというオプション付き。 しばらくの間一緒にいたら、きっと、どんな女の子も、彼に夢中になるに違いない。 だから。 わたしは、哀しくなんかない。悔しくなんかない。涙を流したりはしない。 先生を哀しませたりなんか。したくない。 いや、もしかしたらこんなのは思い上がりかも。 わたしが哀しもうと悔しがろうと涙を流そうと先生にとってはどうでもいいことなのかもしれない。 先生にとってはわたしはただの都合のいい人形でたまに役に立つだけの看護師で小間使いで奴隷なのかもしれない。 だって、その証拠に、先生はこうしてあの場から逃げたわたしを追って来ないじゃない。 きっとわたしのことなんて忘れてあの部屋であの患者さんとよろしくやってるんだわ。 そう。あの、キスの続きを。 わたしにはしてくれないことを、知り合って一週間弱のあの人と。 所詮幼女には欲情しませんか? ――ちぇんちぇいのばか。 再び、そう、今度は声に出して呟く。 そのとき。 「誰が、馬鹿だ」 聞きなれた声が、扉の外から聞こえた。 「ピノコ」 わたしをかき回して混乱させてめちゃくちゃにしてしまう声。 生まれたときから、わたしの五感はこの人に支配されていた気がする。 だってほら、名前を呼ばれただけでこんなにも揺らぐ。 堪えていたのに涙が出そうになる。 叫びだしたくなる衝動。 しゃべったらかっこわるい涙声が出てきそうで、わたしはしゃべることができない。 「ええと、その、ピノコ」 黙っているわたしに困惑してか、気まずそうに口ごもる先生。 「――ごめん」 そんな声音で話さないで欲しい。 そんな風に謝らないで欲しい。 許してしまいそうになる。 「ちぇんちぇいにとって、ピノコはなあに?」 わたしは涙声で問う。 ――先生にとって、わたしは、なあに? ずっと、訊きたくてたまらなかったこと。 扉の向こうで先生が困っているのがわかる。 当たり前だ。先生にとって、わたしは、 ――出来の悪い看護婦で、ただの同居人。 そんなことはとっくの昔に自覚済みだったはず。 わたしは、馬鹿だ。 「ちぇんちぇえのばか。ちぇんちぇえはピノコのことなんかろうれもいいのよさ。ピノコがいなくなってもいいのよさ……」 声が掠れる。自分でも何を言っているのかわからなくなる。 「ピノコ……」 先生が申し訳なさそうに言った。 「すまない、ピノコ」 「……!」 どうして、謝るの、先生。 それは、肯定と同じだと受け取っていいんだろうか。 「ちぇんちぇえは、ピノコなんかいらないんら!」 わたしは叫んで、顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。 実の親からすらも必要とされなかったわたしを、唯一そばに置いてくれた先生。 先生にとって、わたしがいらない存在だったら。 わたしはいったい、何のためにここにいるの? 何のために生きているの? たくさんの問いがわたしの中をぐるぐる回る。そんなわたしに、先生は優しく言う。 「いらなくなんかないんだ。聞いてくれ、その、あの……さっきのは、あの人が一方的に、」 切れ切れに、彼が説明を始める。わたしは黙って聞いている。きっとそれは、でっちあげた適当な嘘なんかではなく、事実だ。彼はそんな無様な嘘はつかない。そんな浅はかなことはしない。 ただ、先生が弁明じみた調子でそれを語るのが、気にくわない。そんな風に言葉を重ねるたびに、わたしは少しずつ、哀れな女のレッテルを着せられているような気がした。それは被害妄想だとわかっているけれど。 「だから、ピノコを不愉快な気分にするつもりはなかったんだ」 わたしに弁解をする必要性なんてないじゃないか。先生がどんな女性と何をしても、それは彼の自由で、わたしがとやかく言うことではないのだ。病室で何が行われていたって、わたしが口を出すことではない。 ――わたしは先生の恋人でもなんでもない。 それなのに、こんな風に束縛して、困らせて。 それが、急にとてもいやしい事のように思えてくる。嫌な女。 「だから、ピノコをいらないなんて思ったわけじゃないんだ。ここを開けてくれないか」 女の子が、部屋で自分が泣いている姿を、好きな人に見られたいはずがない。ばか、とわたしはまた呟く。 先生はそんなことにはまったく思い至らなくて、ただ、わたしのことを心配して、優しくしてくれる。そんな不器用な彼に振り回されるわたしは、本当にダメな女だと思う。 わたしは先生の恋人にはなれないって本当はわかってる。どれだけ愛を口にしたって、どこまで行ってもその愛は庇護欲や憧憬にすり替わるものでしかない。所詮は建前。愛なんて嘘なのだ。そこまで自覚しているのに、彼を独占したいと思ってしまう。部屋で二人っきりでいると、幸せな恋人同士であるかのように錯覚してしまったりする。そんな自分が嫌いだった。もう、ずっと、ずっと、嫌いなのだ。 「ちぇんちぇ」 少しかすれた声で、わたしは言う。 「もう一回、言ってくれゆ?」 「何を?」 彼は静かに問い返す。わたしは、一瞬息をついて「いらなくない……って」と答えた。 「ピノコはいらなくなんかないよ。唯一無二の、わたしの助手だ。最高のパートナーだ」 彼が強い調子でそう言ったのを聞いて、広い海の底に自分が漂っているような気分になった。海の中は無音で、さっきまで考えていた気持ちの悪い嫉妬心、自虐、悩みは鼓膜の外側を流れて、こちらへは寄ってこなくなる。先生の声は一種の麻薬で、わたしは完璧に中毒患者なのだ。患者である以上、医者である彼と恋人同士にはやっぱりなれない。でも、彼がわたしを甘い言葉で酔わせてくれる限り、彼の隣で笑っていてもいいと言ってくれる限り、わたしはおそらくここにいつづけてしまうのだろう。 090706 五年前に途中まで書いて放置してたSSの続きを書いてみた。 途中まで書いて放置したものに手を加えるのは初めてです。なんか、違う人と合作しているような気分になりました。 ピノコと先生の関係って本当に理想的な恋愛の形だなと思ってやまないのは今も同じです。 |