そして、白雪は知らぬ間に降り積もる
今日もまた懲りずに、怒った彼はわたしを置いてどこかへ行ってしまった。カードの有効範囲内には一応いるようだが、どこで何をしているのか、よくわからない。彼を振り回すのは「マリナ」という概念。そして彼女につながる、かすかな可能性、希望。
「希望ポイント」なんて名前こそあるものの、それが彼にとって本当に希望になるとは到底思えなかった。
わたしは、彼の家のドアの前で、ぼんやりと座り込んで、帰りを待っている。
わたし以外のドールたちは、もはや主人の帰りを静かに待つという、殊勝な心はもっていないらしい。みんな好き勝手に過ごしている。それでいい。タンパク質も鉄分ももたないわたしたちにだって、それなりの自由はあるのだから。
なぜか昔から、彼の残念な言動について、勝手に心中でフォローしてしまうくせがある。それも無意識にだ。尋ねてみたけれど、バジルとチャンパにそんな気持ちはないらしい。敵対する相手には「残念王子」などと呼ばれてしまうあの人は、それでもたぶん、わたしの王子さまには違いないのだった。
かつて、わたしをたすけてくれた頃のあの人は、間違いなく王子さまだった。さしのべてくれた手は、あたたかかった。触れることのなくなった今だってきっと、あの手はあたたかいままだ。データではない実像のあたたかさ。わたしは、それを切実に欲している。
キスが終わるまで目を覚ますことを許されない白雪姫のように――静かに目を閉じて、彼を待つ。もう夜になっていて、ひんやりした空気が肌をさす。この街の夜はひどく暗く感じられる。優しい彼がいない夜が増えてからは、前よりもっと暗い。
そんな街を無為に走り回り、何も得ずに戻ってくる彼のことを、ただ考えている。
彼のこころがどこにあるのかは、きっと彼自身にすらわからない。
誰かを失った傷心のこころは、ほうっておくと実体を失い、空を漂うだけのものになる。
実体のないこころが望む希望にも、実体はない。いわば偶像だ。
大好きな女性の名前を呼びながら泣き崩れる彼が、手に入らないおもちゃを嘆く少年のようで、とても悲しいと同時に愛しい。彼は自分の手に入れたいものが何かすら、満足に説明できない。彼がほしいのは、もはや今存在している彼女の実像ではないし、完全に過去の思い出のみでもない。過去と現在が都合よく融合した、現実にはありえない「マリナ」。まるで、腕のないヴィーナスの理想像を求めているみたいだ。
希望をいくら貯蓄したところで、そんなもの、手に入るわけがない。そういったことをすべてわかっているからこそ、わたしは彼のそばにいられる。わたしは、そんな自分のずるさをわかっている。彼の横暴さが明らかにまちがっているから、わたしが少しくらいずるくたって、誰も気にしない。そんな風に、事実に蓋をした。
そして、わたしのデータのこころにも実体はない。彼を愛しいと思う気持ちは、ドールがマスターを思う献身なのか、それとも前のマスターを失ったがゆえの身勝手なのか……それとも、どちらでもないのか。わたしが欲しているのも、彼という実体ではなく、ただ自分をいやすだけの、都合のいい満足。だからとてもお似合い。
バジルとチャンパはとてもいい子たちだけれど、わたしとは違う原理で動いているようで、時折悲しくなる。彼女たちはただ、「ドール」の職務に忠実であるだけだ。使えない主人に使われることを嘆く、うつくしい従者。
……そんな風に考えていると、背後でドアがコンコンと鳴る音がして、はっとした。
「ね、アロエ。あいつ、今夜はもう、帰ってこないよ」
バジルだった。ドアを開けようか迷ったけれど、もう体を動かすのが億劫だった。
「そんな風に待っても、また怒鳴られるだけ」
たしかにそうだ。待っていたからといって、褒めてもらえるわけではなく、そう命令されたわけでもない。むしろ億劫な顔をされそうだった。そう考えると、こうして待つ行為はまったく彼のためになっていない。むしろこちらのエゴの一部なのだと気付かされた。
「いいの。ここで待ちたい」
ここにいれば、傷心のあの人を待っていられる。
こころが折れて、ぼろぼろになって、誰かに当たり散らしたいくらいに怒り狂う……そんな今日の夜の、一番弱い彼を、わたしが一番最初に出迎える。
捨てられて、ぼろぼろになったわたしを、彼が甘やかしたように。
他のだれでもない、わたしが彼を甘やかす。
この役目は、マリナという女性にも、他のドールにも、渡したくない。
「仕方がないな」
優しいバジルは引き下がった。このやりとりも、もう数回目だ。
「あんなマスターのどこがいいの?なんて野暮なことは聞かないよ。同じドールとして、アロエの気持ち、たぶんわかるから」
低い声でそう言って、バジルは部屋の中へ戻っていったようだった。
その間に、夜はまた更けていた。少し眠くなり、微睡む。
夢のなかで、わたしは彼と二人、カフェでショートケーキを食べていた。バジルとチャンパはいなかった。ケーキを注文したのは彼だけだったけれど、彼はそれをふたつに分けて、半分をわたしにくれた。もちろん、ケーキを完全に二等分することなんて、不器用な彼にできるはずがなかった。片方はきれいに残ったが、もう片方は崩れて落ちた。少し迷ってから、きれいで大きな方を、彼はわたしにさしだした。なんだか不自然に優しい。それは、夢なのだから当然だった。
そんなケーキは甘くておいしかったけれど、無声映画のように、わたしと彼の会話はあらかじめ消されていた。何を話しているのか、そもそも何も話していないのか、少し気になった。
ただ、そんな風にふたりきりでケーキを食べても、やっぱりわたしの脳裏には前のマスターがいて、本来の彼のなかには別の彼女がいるのだろうと、夢のなかにいるもうひとりの冷静なわたしは、遠くからふたりを眺めて思った。
ふたりはたしかに相似形だ。それでも、ケーキの形が同じでないように、少しずつ内面がずれていく。
そのずれを意識した瞬間、ケーキの甘さが、ひどく苦く思えた。
+++
……青年は、深夜の冷たい空気の中を、歩いて帰ってきた。服装はそこそこあたたかいものにしたつもりだったが、やはりこの時間の空気は肌をさす。
共に歩きたい女性がそばにいないから、なおさら寒い。
マリナ。今日も君はいない。
そうつぶやきながら家の前に来ると、ひとりの少女がそこで眠っていた。
「……アロエか」
思わず舌打ちする。またこいつは、こんなところで。ドールとはいえ、こんなあてつけのような行為を、他人に見られたら面倒だ。特に、マリナに見られたらおしまいだ。こういうことはやめてほしいと思うのだが、バジルとチャンパにくらべて、自分に冷たくしないように思う彼女に、その意思を伝えることがどうしてもできない。ここ最近はこんなふうに待っていてくれることが増えたから、きっと、アロエが待つのをやめてしまったら、それはそれで怒鳴り散らしてしまうのだろうという気もする。そんな自分の気持ちの意味が、よくわからなくなってきた。
こんなことに心を割くなんて、われながら、まったくもって馬鹿らしい。
マリナ以外のやつなんて、どうだっていいはずなのに。
初めてアロエと出会ったとき、彼女はとてもうれしそうだった。
「取替えのきく道具」かつ「データ」にすぎないはずなのに、そんなふうにうれしそうに笑う彼女を、捨て置けないときがあるのは確かだった。
しかし、そんな感情は邪魔だ。
最近は、深く考えないようにしている。
そんなことより、大事なのは「希望ポイント」じゃないか。
希望、希望、希望。自分のこころを動かすのはそれだ。早くポイントをためなくては。
……でも、その希望のための有力な道具になるのは、今ここで眠っている努力家の彼女だった。
この先どうなるかわからないが、自分の希望は今、アロエと共にある。
「マリナを取り戻したら、こんな生活は終わるんだ」
ぼやきながら、ファーのついたコートを、眠る彼女の肩にかけて、その横に座った。
家の中にいるのは、バジルとチャンパだ。今入っていって、またあのふたりに嫌そうな顔をされるくらいなら、朝までここにいたほうがマシだ。
幸い、疲れているので、すぐに眠れそうだった。
眠りに落ちる直前――隣で眠る彼女が、さっきより満足そうに笑っているように思った。
+++
「――まことに残念な事実だが、童話の姫君はいつだって狡猾で、王子は振り回されるだけ」
その夜。彼は、内容はよく思い出せないけれど、そんな知ったふうなセリフを、きざな誰かが言う夢を見て、ひどく腹を立てたのだった。
あまりにも腹立たしくて、目を覚ましてから、いつもどおり、隣にいるアロエを怒鳴りつけた。だが、怒鳴られた彼女は、子供をあやすごとく、気丈に笑って言った。
「ずっとお待ちしておりました。ご主人様、おかえりなさいませ」――と。
目を突き刺す朝の光のように、その言葉は眩しくて恐ろしい。
でも、その光がなぜか荘厳で尊いもののように、彼は思った。それを尊く思える理由を、自ら察することのないままに。
20131021
一部、時間軸を意図的に歪めている気もしますが、アニメ完結記念の残念王子とアロエです。
解釈がこれでいいのか、書いててよくわからなくなりつつ、このふたりの依存関係、すごく好きなのでした。
4話のあとは仲良くなったみたいでとても嬉しい。