目が、覚めた。ここは、保健室らしい。白いカーテンがひらひらとなびいているのが見える。シーツも、ベッドも、白ばかり。心臓まで真っ白になってしまいそうだ、と心にもないことを考えた。
鏡を持ち歩く高校生男子なんて気持ちが悪い、と彼は言うだろうか。そんな風に考えながら、ベッド脇に無造作に置いてあるかばんから、手鏡を取り出してみる。鏡の中の自分はやはり、青白すぎるくらいに青白い顔をしている。透き通るような白、と称してみれば聞こえはいいが、貧血か欠食児童にしか見えない。
やれやれ、と口に出してみる。ここ最近の時間外労働は労働基準法に違反するレベルの代物で、さらに平日昼は学校にまでちゃんと通わなくてはならない、という制約が邪魔をして、ろくに寝られたためしがなかった。鏡の中をもう一度覗きこむ。目の下にはうっすらと隈ができつつある。涼宮ハルヒに見つかると厄介なので、少し化粧を学んだほうがいいだろう。
ドアの開く、音がした。次の瞬間には、駆け込んできた彼と目が合う。否応もなく、目が合って、しまう。
「古泉」
彼の声がどんな感情に根ざしているのかわかりかねて、古泉は黙った。
「……大丈夫か?」
「ええ」
頷くだけにとどめたのは、声が少しかすれていることを自覚したからだ。しかし、彼の目が怒りを含んでいるような気がして、こう付け加える。
「ご心配、おかけしました」
「本当にな。こっちがやれやれ、って言いたいぐらいだ」
「長門さんは、何か言ってましたか」
確か、倒れる寸前に一緒にいたのは、彼、そして長門有希だったはずだ。そんなことを思い返しながら古泉は尋ねた。
「大丈夫、心配ない、ただの過労、栄養失調」
長門の口調をまねているのか、平坦に彼は告げる。「だそうだ」
「長門さんは、真実しか口にしない。とても、素敵な姿勢ですよね」
古泉はそう言って、にっこりと笑おうとしたが、うまく笑えているのか自信がない。
「おまえもそういう風になってくれるとありがたいんだがな」
苦々しげに彼は吐き捨て、しかし、「あ、いや、今のはちょっとなしで」とすぐに撤回した。どうやら気を使われているらしい。病人という立場は、同情を呼ぶものだから、か。
「長門はあんなだから、ああいう言い方しかしないけど」
と、彼は口ごもりながら指摘する。
「でも、あいつもおまえのこと、かなり心配してると思うぞ」
「……それは、推測ですか?」
「いや、確信だ」
そうですか、と自分はたぶん、口にしたのだと思う。そして、熱に浮かされたように、つづけてこう口走った。
「ひとつだけ、本心を言うのなら」
そう、本心。それは今まであえて見ないで確認しないで手に取らないで、なかったことにして放置していたものだ。でも、それではだめなのだ。彼と彼女の目は、ごまかせない。
「ぼくは、あなたを犠牲にしたくないと思っていたんです、よ」
犠牲という言葉は美しくて貴いけれど。
彼や彼女を犠牲にしたくはないと、思っていた。
しかし、自分が代わりに犠牲になるという現実に酔っている古泉一樹がこの時間軸に存在したのもおそらく、真実だ。
誰かのために死ぬ、殉死する自身に陶酔している。
長門有希や朝比奈みくるに、そういう感情があるのかどうかは不明だが――
彼女たちだって、同じようなことを考えたことはあるのではないだろうか。
唯一、そんな思考に縁のなさそうな彼は、不思議そうに目を細めた。
「犠牲になりたくないのは、誰だって同じだろ」
それを聞いて、ああ、自分は馬鹿なことを言ったのだ、と思った。
「すいません」
素直に謝ると、苦虫を九十匹ほど噛みつぶした顔の彼と目が合った。
「謝られても気持ちが悪い。第一、意味がわからん」
彼の言葉はもっともだったので、笑ってごまかす。さらに気持ち悪い、と言われた。
「……はは」
いつもどおりの笑いを付け加えながら、自分は彼を信用するかしないか、そのことで迷っているのだと気付いた。すべてを信用してしまうことは危険だ。彼に信用されきってしまうこともまた、危険。しかしそれでも、自分は信用してほしいと願っているのかもしれない。心のどこかで、信用なんてしてほしくない、と叫んでいる自分がいる気もする。わからない。どちらが本当の自分か、わからないのだ。
「とりあえず、早く元気になれよ。みんな心配するんだから」
それでも、彼のその言葉だけは、全面的に信頼しておこうと思った。
091128