「僕にとって一番のお宝は、あなたの笑顔ですよ」
本当にそう思っているかはともかく、ためしにそのときの保呂草潤平はそんなことを言ってみた。ひとつ言い訳をさせてもらうなら、本当に考えていることを口にする機会なんてめったにないものだ。特に仕事――成し遂げたい何かのためなら、人は簡単に嘘をつくし、呼吸をして嘘をつくしかしない生き物になることも多々ある。
このときの彼女の反応と来たらひどく冷ややかで、優雅に微笑みながら「あなたってお気楽ね」と一言だけであった。保呂草はそれ以上追及せず、「相変わらずあなたは最高です」と無意味な褒め言葉を発した。それはもしかすると負け惜しみのように響いたかもしれない。だが、彼女の前で彼が勝てたことなど一度もないので、特に問題はない。
「あなたにとっての宝――美術品は、絶対に手に入れたいもの、でしょう?」
彼女はものわかりがよすぎる。保呂草は自分自身をそんなに頭が悪い人間ではないと自負しているのだが、瀬在丸紅子の言葉は常に会話のかなり先を考えて発せられていすぎて、扱いには少し手間がかかる。
「ええ、そうです」
「わたしの笑顔は、手に入れられましたか。泥棒さん」
保呂草は迷わず頷く。「ええ」
「残念だけれど、それは無理というもの」
紅子は目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。彼女の人格と表情、そして言葉の中に含まれた意味は常にちぐはぐである。嬉しそうにしているからといって本当に嬉しいわけではないのだ。
「どうして?」保呂草は訊く。
「あなたに、それをあげるつもりはないからです」
「こうして、今も笑ってくれているじゃないですか」
「『くれている』? あなた、何様なの?」
「失礼。そういうつもりでは」
保呂草は両手を挙げて降参の意を示した。「すいません」
「こう言わなくてはダメかしら。わたしの顔はわたしのものです。首を切り落として盗んで行かれない限り、あなたのものにはなりません」
保呂草は苦笑した。
「これはまた、子供っぽい反撃ですね。いやはや、紅子さんらしい」
そう言ったものの、紅子という人物が子供っぽい、というわけではもちろんない。紅子の特徴はあくまで紅子であるという以外に説明のつかないものだ。子供っぽいとか大人っぽいとか、そんな単純な物差しで測れるものではない。ただし、ある一人の男性について彼女が語るときのみは、少しその法則が揺らぐのだが……それについてはあまり考えたくないと保呂草は思っている。なぜなら、その男性の正体は保呂草ではないからだ。
「この上なく子供っぽいお仕事をしていらっしゃる泥棒さんに言われたくはないですね。ジュブナイル小説の悪役のモデルに立候補されたらどうかしら」
「何の事だか、わかりませんね。僕の仕事は便利屋、もしくは探偵であって、怪人二十面相ではありません」
「あなたのおっしゃることは、一切合財、すべてが信頼できない」
紅子は囁くように宣告するが、保呂草は肩をすくめるしかない。
「少なくとも、あなたの前では正直者のつもりですけれどね、僕は」
「正直だからと言って嘘をついていないことにはなりません」
「それ、至言ですね」
「ただの詭弁ですわ」
そこまで話して、紅子は顔を上げて窓の外を見た。無言亭の外では小鳥遊練無と香具山紫子がキャッチボールをしている。二人はとても幸せそうに笑い合っていて、微笑ましい。そんな微笑みの輪の中に当然のように混じっている自分を、保呂草はたまに不自然に思うことがある。
「あなたは、あの子たちを利用しているのよ。保呂草さん」
紅子は怒っているようだった。怒っているような口調でも怒っているかどうかはわからない彼女であるけれど、あの二人について保呂草に話している時の紅子はいつもこうだ。きっと、彼女は本気で怒っている。
「あの二人の気持ちを考えたことがある? 大切なものを盗まれる人の気持ちがわかる?」
「僕は、何も、盗んでいませんよ」
「あなたは盗んでいるんです。あの二人を、騙している。それはきっといつか、あなたの首を絞めることになる。あなたがあの子たちを友達と呼び、あの子たちがあなたを仲間と呼ぶ。その関係は、不自然なんです。そのことがおわかりにならないあなたでもないでしょう?」
紅子は珍しく長めのセリフを一気に口にして、ふうと一息、息をついた。保呂草は何も言わずに煙草に火をつける。
「僕は……」
何か言おうと思ったのだが、途中でわからなくなってしまった。そう、結局のところ今の保呂草にとって、瀬在丸紅子以外の人間は利用すべき対象でしかない。友達、知り合い、仲間、同業者、みんなみんなそうだ。自分の目的のためならば、利用しても構わないと思ってしまっている。そのことを、紅子は怒っているのだろう。紅子にとっての彼らは、保呂草にとっての彼らとは価値が違うから。保呂草が美術品に対して異様な執着をしてしまうように、紅子は彼らに執着する。
「お話は終わりです、保呂草さん」
と言いながら紅子は席を立ち、扉へと歩いていく。その扉の先には小鳥遊練無と香具山紫子がいる。紅子が最終的に選ぶのは、いつもそちら側の人間で、保呂草ではない。そのことがとても寂しいことに思えて、保呂草は『寂しい』なんて感情がまだ自分のうちに残っていたことに苦笑した。紅子を追うべきか一瞬だけ迷ったが、保呂草は部屋に残って煙草を吸うことにした。この部屋には彼女のまとう香りがかすかに漂っていて、とても気持ちがいい。幸せとは常に錯覚であるけれど、今はその錯覚の中にうずもれていたいと、彼はしみじみと思った。