境界線上の僕等

 明確に分かれていない、ゆらめく境界線の上で、ぼくらは夢を見る。
「やあ」と着ぐるみの男が手を挙げたので、無言でこちらも右手を上げて答える。
「こんにちは」と金髪の少年は言い、目を合わせるとぷいとそっぽを向いてしまった。
 そしてぼくは、と言えば。何も言わずにただ、この空間を眺めている。サイケデリックな色の壁紙の、小さな部屋だ。入院患者も来客も看護婦もいない。三人のぼくが、存在するだけの部屋。
 ぼくと同じ声をした着ぐるみのぼく。
 ぼくと同じ髪の色をした少年のぼく。
 そして、ぼくが今自分自身だと認識しているぼく。
 三人の精神は普段は結合しているが、たまにこうして分離して夢になることがある。もしかすると、もともと分裂的な自己を持っているのかもしれない。それについては、専門分野のはずなのだけれど、よくわからない。ここはひとつ、客観的な目を持つ人――マユミちゃんにでも聞いてみようか。まあ、答えてくれないだろうから期待はしない。
「今回の患者をどう思う?」着ぐるみのぼくが言った。
「放っておいても勝手に立ち直りそうな気がする」少年のぼくは本を読んでいる。
「ぼくもそう思うなあ。干渉するとかえって捻じれちゃいそう」ぼくはそう答えた。
「ぼくは干渉したいけどなあ。むしろ、鑑賞したいっていうかあ」着ぐるみのぼくは悪乗りする気満々だ。この人はたまに、悪化する可能性があるのに無茶な干渉を行うことがある。まあ、それはぼくも同じなんだけどさ。だが、自覚的か、無自覚的か、という差異はある。
「後始末はぼくがすることになるんだけどなあ」後始末、と少年のぼくが称するのはいわゆる、患者のアフターケアのことだ。ぼくと着ぐるみのぼくが事態をひっかきまわしたあと、患者の精神をフォローするのはわりと、彼の担当だったりする。明確な分担があるわけではないが、少年のぼくは積極的に事態をかき回すことはしない。
「とりあえず、やるだけやってみちゃおうよ。減るもんじゃないしさあ」着ぐるみのぼくが馬鹿なことを言っている。人の精神は減ることはないが、すり減ることはあるだろうに。まあ彼も、本気で減るもんじゃないと思っているわけではないだろうから、放っておいてもいいか。ぼくらの精神は根幹でつながっている。伊良部一郎という自己は一定だ。内部でこうして話し合いが起きていても、外側に現れる『伊良部一郎』は一人しかいない。責任も、性質も、社会的立場も――一つしかない。よって、完全に決裂することはない。もし決裂したとしても、三人、という数字は奇数だ。いい判断と悪い判断の二種類に分かれた場合、理屈の上では、二対一で正しい方が勝るはず。無茶な策を行おうとしても、脳内で可決されない。たぶん、二人でも四人でもなく、三人分の自我があるのはそういうからくりなのだ、とぼくは勝手に思っている。
 これは、よりよい判断を行うために、最適な人数だ。
「これ以上話がないなら、ぼくはもう寝るね。あとは大人同士で適当にどうぞ」少年のぼくはあくびをしている。
「ふたりっきりで残されてもつまんない」着ぐるみのぼくはそう文句を言った。顔が見えないからいまいち本心がわかりにくいが、一番子供っぽいことを言うのはこの男である。逆に、少年のぼくはとても大人びていて、冷静だ。外見と中身が逆行しているような気がしなくもないのだが、そうするとぼくは何なのだろう。ひどく中途半端な存在に思えてならない。まあ、中庸の存在と言うものは必要だ、と自分に言い聞かせてみよう。経験上、自分を否定してもいいことはないからなあ。自分全肯定、がぼくのモットー。他の二人はどうだか知らないけど。
「ぼくもつまんないなあ」ぼくはそう発言する。「もう今日はお開きでいいんじゃない?」
「はいはい、じゃあおしまい。また、会えたら会いましょう」何かのものまねだろうか、最後はイントネーションを少し変化させながら、着ぐるみのぼくがそう締めた。蝋燭の炎を消すように、彼の姿が揺らいで消える。
「おやすみ」少年のぼくはそうつぶやき、同じように消える。
「はあ」ぼくはため息をつきながら、誰もいない部屋の中に立っている。サイケデリックな模様を網膜に映しつつ、ぼくもそのうち消える。目を覚ましたら、元通り、たった一人の、統合された伊良部一郎になっているはずだ。くるくると姿を変えるけれど、存在は一人分しかない。三人で交替して外に出ながら、ひとつの仕事をこなす。次に来る患者は、どんな顔をして、どんな個性を持って、そしてどんな悩みを持っているだろう。ぼくはその悩みを、うまく処理することができるだろうか。とりあえず今は、マユミちゃんのビタミン注射に期待しておくことにしようか。



091130