水の国
その日は、梅雨真っ盛りの六月にしては珍しく晴れていて、彼にふさわしい青だと思った。
「八雲さんっ!」
少女が背後から声をかけると、はじけるような笑顔で彼が振り向いた。
「はいっ!何ですか、娘サン」
「あのですね、八雲さん」
「はい!はい!何でしょうか娘サン!」
しっぽをふる犬のような挙動。
少女は少し苦笑いする。
嘘のつけない人だなあ、などと考えながら。
「あのですね、そんな風にされると、かえって言いづらいです」
いつも正直な彼のまねをするように、内心を告白してみる。
はっとしたような顔で彼が黙った。
「はっ!? す、すみません。私としたことが、またこのように愚鈍な行動であなたをわずらわせてしまい……ああ、なんとダメな男なのでしょう……」
大仰に涙を拭いて見せる彼の額に、少女はピコーン!と一撃を喰らわせた。
……彼女の時代では『デコピン』と呼ばれる、親しみをこめた愛情表現的な風俗であったが、彼はそんなことは知らない。
何が起きたのかわからない、と言いたげに、びっくりした顔をしている。
普段は、自分の方がむしろそんな顔をしているのだろうな、と考えつつ……少女はにっこり笑ってこう言った。
「八雲さん、お誕生日おめでとうございます」
この日のために鏡の前で練習した笑顔は、彼にちゃんと伝わったようだった。
彼はようやく我に返って尋ねる。
「娘サン!もしかして、今の『ぴこーん!』が誕生日プレゼントなのですか……?」
「まさか!今のは、八雲さんの自虐に対するおしおきですよ」
今日は誕生日なのですから、そういうのはなしにしましょう?
と、少女はできるだけ優雅に答えてみせた。
彼の誕生日だという、ただそれだけで、少し舞い上がって背伸びをしている。そんな気がする。
彼は感心したように手を打った。
「アメイジング!さすが娘サンです……自虐は福が逃げていくからよくないという日本の美学を、こんな形で私に教えてくださって」
「いや、別にそんな細かい意図があるわけでは」
困った顔で笑んだ少女は、小さな包みを彼の手に渡した。この日のために、懸命に悩んで選んだ贈り物だ。
「八雲さんが生まれてきてくださって、私はとっても嬉しいです」
そのセリフは、あらかじめ練習したものではなかった。
ただ、彼を前にして自然に生まれた感情を、そのままに表現した言葉。
ふっと笑んだ彼は空を仰いだ。
梅雨が終わり、夏に近づいていく境界にある場所に自分たちが立っているのだと思うと、少し胸が躍る。
少女も同じように空を見上げてみた。
「梅雨が明けたら、ほんとうの夏が、来るのですね……」
次に来る夏も、こんな風に彼と二人で空を見上げながら、迎えられればいい。
それまでに、異国よりも異国に近いこの国で、自分も一つ年をとるのだろうか。
彼のような大人に、一歩近づくことができるだろうか。
「何を考えているのですか、娘サン」
いつもより真剣な声で問いかける彼の声が、印象深く響いた。
「八雲さんのお名前、空に幾重にもかかる雲、という意味なのですよね」
「はい、そうです」
「そんな八雲さんの誕生日なのに、今日は雲ひとつない快晴で……でも、その空は八雲さんの綺麗な目と同じ色なのですね」
少女はそう答えて、背伸びをして彼の頬に触れる。
ひやりとしたその感触は、昨日までしとしとと降っていた雨に似ていた。
普段はその美しく澄んだ瞳の話はしないようにしていたのだけれど、今日は言わずにはいられない気持ちだった。奇跡のごとく澄み渡る青を、見たからだ。
彼は不愉快になってはいないだろうか。少しおびえながら少女は彼の目を見やる。
澄んだ色も、少年のような光も、そこに浮かぶ表情も……すべて、いつもと同じだった。少し、ほっとする。
彼はそっと彼女の手を包み込んで、消え入りそうな声でつぶやいた。
「そんな風に、あなたが醜い私を美しいと言ってくれるから、私は救われているんです」
少女は何も答えなかった。その沈黙こそが答えだった。
このまま二人とも、青い空に呑まれて同化してしまうように思った。
ああ、自分も彼に救われている。唐突にそう気付かされる。
彼は、何のとりえもない少女に、誰よりも美しいと言ってくれた……たぶん、それは呪文だった。
だから、こんなにも同じ気持ちになって。
共鳴するように、同じ精神を持っているのがわかるから、もっと愛しい。
自分たちは上空に漂う蒸気なのかもしれない。
突如、そんな飛躍した思考が浮かんだ。
それは時に雨になり、雲にもなるだろう。
しかし青空にとどまることはおそらくできない。
それゆえ、こんなにも晴れた空に焦がれる。
手を取り合って空から落下し、そしてまた空に還る、その繰り返しが、とても心地よい。
そんな情景を想像しながら、少女は冷たい彼の頬から手を離して、もう一度笑った。
2012年6月26日