貴弘が人を傷つけた時のことはもう忘れた。
貴弘に自分が傷つけられことは、さあ、忘れたのか最初からないのか、わかりませんわ。
とにかく、わたしが明確に覚えているのはひとつだけ。
何のためらいもなく、人を傷つけることができてしまうことの怖さ。
そして、その怖さを自らが認識することができない、怖さ。
うすら寒くなるほどの――狂気。
彼は、人間じゃない。犬だ。
それを認識するまでに、少しだけ時間がかかった。
彼はわたしの前では笑わないが、飼い主に命令されれば、どんな透き通った笑顔にだってなれるのだろう。うすら寒い笑顔を浮かべ、良心と両親に笑って見せるのだろう。それだけが、彼という存在の意味だ。
大江家の中で、どうして彼だけがそんな風な特異になってしまったのか、それはよくわからない。
男だから、なのか。
長男だから、なのか。
それとも母の描いた筋書き通りだから、なのか。
いずれにしろ、厄介なおぼっちゃまであったことには違いない。
靴を舐めろと言われれば舐めるだろうし、ゴミを食えと言われても眉ひとつひそめずに残さず平らげてしまうような、そんな純粋で歪んだ犬。それが、大江貴弘の本質。
整った顔立ちの中に、何の感情も浮かべることなく。彼は生き、死に、食われた。
比喩表現ではなく。物理的な意味で、食された。
捌かれて、解体されて、包丁で刻まれて、食われた。父親は知らずに肉を食い、味のコメントまでした。
しかしおそらくは、自らが味をつけられ食されてしまうことですら、貴弘は何とも思わないだろう。
だって、飼い主の命令ですもの。
ああ、なんという気持ちの悪さ。
そんな男ときょーだいごっこをしていたわたし自身も、まあ例にもれず気持ちの悪い存在なのですけれどもね。おほほ。
大江家は異常な狂気に満たされていた。
その根源がどこにあったか、わたしには把握できない。
冷たい目をした妹と。
すべてを逆向きにしかとらえられない妹と。
人間じゃなくペットな兄と。
無邪気すぎて逆に気持ちの悪い、母。矮小な父親と、同じく矮小な使用人たち。
狂気の源が誰の内側から発せられていたとしても、わたしにその拡散を防ぐことなんてできなかった。
だって、わたしは正式な大江家の一員ではないもの。
わたしは大江湯女。しかして、その実態は、借り物の姉妹。
あとから無造作に追加された、存在。
だからといって狂気の影響を受けずにいられるわけではないし、責任がないと言いたいわけでもない。
わたしは、あえて兄を食べなかった。
でも、その肉を見て、その存在の愚かさを知って、いた。
かわいそうな、大江家のペット。大江貴弘。彼の人生には何もなかった。そもそもあの兄に、人生、なんてなかったのかも。飼われて飼われて飼われ続けて、外の世界も、愛情も、何も知らず。飼われることしか知らなかった高貴な貴弘。犬であることを否定しながら、最終的に犬でしかなかった貴弘。死ぬ瞬間まで、彼は確固たる自分というものを持っていなかった。うふふ、戯言ですけれどね。
でも、飼われていたという点ではわたしも同じものかしら?
あんなのと同じにされるくらいなら、舌を噛んで死にたいというのはもちろん、嘘だけど。
今、茜と一緒に笑い合いながら、わたしは貴弘のことを考えている。
生きている茜と笑いながら、死んだ貴弘のことを。
生きるために必要のない情報を、考えられずにはいられない。
茜は、貴弘のことは忘れてしまったのかしら?
大江家の中で、彼女にとって真実大切なのは妹だけだったようだし、それも仕方ないかも。
妹も、貴弘も、同じように味付けされて食われてしまったんだけれど、茜にはそんなことはどうでもいいのかもしれない。茜は、桃花の肉は食べなかった。貴弘の肉は、食べた。その現実が、彼女の心を映し出す真実の証ですわ。なーんて、嘘だけど。用法、これでいいのかしら。『アレ』の猿真似をするのも大変ね。
あの日の、あのお肉は、おいしかった?
わたしは茜にそう尋ねたいと思いつつ、できずにいる。
聞いてしまったら、茜がナチュラルに壊れてしまうかもしれないなんて、センチメンタルな仮定はもちろん嘘だけど――センチメンタルなこの二人きりの家庭は、もう少し続いていってほしいから。
まあ、たぶん大江茜は、ナチュラルに思考を停止させて、再起動することもなく次の言葉を待ち続けるんでしょう。彼女も、腐っても大江家の一員なのだから、狂っていないはずがない。まあ、わたしほどじゃないけれどね。わたし自身は、そろそろ貴弘とかいう人間のことは忘れようかと思っていますの。だって、あまりにも生きるのに役に立たない、情報だから。わたしも茜も、おなかがすいていますの。非常に、非常に、空腹で狂いそうなんですの。もう狂ってるというツッコミは断固拒否させていただきたく存じます。
極限に空腹だから、今ここに貴弘が存在したら、あのスープが存在したら、もしかすると食べてしまうかもしれません。それが少しだけ怖いのです。
以上、U.N.オーエがお伝えしました。
もちろんすべて嘘でございますけれど、何か問題でもありますか?
091125