日はまた昇らない

――恐怖に震えながら目を覚ます。太陽はまだ昇っていなかった。
 寝返りを打つと、背骨がじくじくと痛んだ。当然だ。自分が寝ているのは、電柱の真下なのだから。
 普段なら、もう少しましな場所を選ぶのだが、昨日は少々疲れていた。場所を選ぶ暇もなく、とりあえず横になって寝てしまった。もちろん、完全に熟睡はしない。「できない」のではなく、あえて「しない」のだ。なぜなら、たまに寝ている隙に攻撃を仕掛けてくる輩がいるからである。攻撃されてもすぐに反撃できるように、常に臨戦態勢にあらなければ。殺されるならまだましかもしれない。それより、男の性欲のはけ口にされるのだけはごめんだった。そんなことは怪しげな小説や映画の中でしか起こらないと思っていた。案外男を襲おうとする暴漢というのはいるのだ、と金田は最近になって身をもって知った。奴らは頸動脈を切って殺してやったが、自分が抵抗するのが少しでも遅れていたら、と思うとぞっとする。まったく、なぜ好き好んで男を襲うのか。自分にはそういう趣味はないだけに、理解に苦しむ。女を犯して殺したいという願望ならば、まだ理解できるのに。
 ぶるり。体が震えた。まだ恐怖が体内に残っているからだった。人を殺して逃げ始めてからずっと、その恐怖は体から離れない。あの警官が、腹を裂かれた男が、あるいは安藤が、萩原が、自分を狙っているような気がする。自分が殺されるビジョンが脳裏に何度も何度も再生されて、心を蝕んでいく。
――妙子、と呟いてみる。自分の中に発現した、唯一の救い。彼女は答えない。
 いつでも会えると思っていた。
 いつでも抱けると思っていた。
 あの日、彼女を抱いた感覚はとてもリアルだった。彼女の中に自分を放出した瞬間の胸の高鳴りは、本物のセックスで得られるものと同じだったはずだ。だからこそ、自分は妙子のためにより狂気へと傾いても、構わないと思った。自分の中の彼女と、あんなにも強く繋がりあえるのに、わざわざ彼女を精神から捨てる必要性なんて、感じなかった。
 しかし、あれ以来、リアルな彼女には出会えていない。確かに、妙子は自分の中にいるはずだ。彼女と抱き合い、お互いを慰めることができないのは、どう考えたっておかしい。あの日のあの行為はなんだったというのだろう。自分の中には妙子が発現して、二人は永遠に繋がって、幸せなはずだった。
 どこで歯車が狂ったのか――金田にはわからなかった。そもそも自分は狂っている。歯車が狂ったって、わかりやしないのだ。
 こきこきと骨を鳴らして、金田は自分の手を見た。赤黒いものがこびりついている。必然として、昨日のことを思い出す。昨日。道で、警官に声をかけられた。不審な目で見られた。危ないと思った。迷わず、頸動脈を切って殺した。他の殺し方を知らないわけではない。ただ、それが一番楽で、手慣れた方法だからという理由で、彼はその殺し方をすることが多い。
 死体を始末するのは面倒だったが、あまり早くに発見されても面倒だ。そう思って、人目につかない茂みまで死体を運んだ。正直、殺すよりも運ぶ方が大変だった。自分はそんなに体格がいい方ではない。
 それで、疲れて寝てしまった。

 もう一度寝る気にもなれず、起き上がってみた。周囲は真っ暗だ。午前二時くらいだろうか――とぼんやり考える。喉が渇いていたが、あまり頻繁に人のいる場所に足を運ぶと、警察に見つかる可能性がある。それに、金もない。自粛しなくては。
 妙子に会いたかった。
 妙子に会えないのなら、せめて安藤や飯島に会いたかったが、それはきっと叶わない願いだろう。
 飯島はともかく、安藤は――会ったら、殺してしまいそうだ。
 もう、彼に対する明確な殺意は薄れつつある。というか、すべての感情があいまいになって、感情の境がよくわからないのだ。自分は今、楽しいのか嬉しいのか悲しいのか殺したいのか殺したくないのか、わからない。狂っている自分を自覚して以降、自分はどんどん狂気へと転がり落ちている気がする。正常からどんどん遠ざかっている。
 しかし、彼のせいで自分がこうなった、という恨みつらみのようなものは消えはしない。浅倉のこと。殴られたときのこと。失われた前歯のこと。妙子が死んだこと。妙子が発現したこと。妙子があれ以来姿を見せないこと。全部、安藤のせいにしてしまえば楽なのだ。それは安藤のせいではない、と主張する聡明な自分が、心のどこかにまだ住んでいる可能性はあるけれど、そんなのは些細なことだ。そもそも、安藤のせいにしなければ自分が壊れてしまう。だから、真偽はどうあれ、自分は安藤を憎まなければならない。

 ああ、しかし、それならばなぜ自分は、安藤に会いたくないと思ってしまうのだろう?
 会ったら殺してしまうから、会いたくないなんて――狂人で殺人鬼である自分にしては、ずいぶん生ぬるい論理ではないか。まるで、正常な人間のような。毎日のように他人の頸動脈を切る自分が、そんなことを考えるなんておかしい。
 もしかすると、自分はまだ安藤を友達だと信じたいのかもしれない。
 この期に及んで、彼が友達だって?
 まったくもって笑える。自分は真性の馬鹿ではないだろうか?
 もう終わったのだ。彼との友情も、飯島との友情も、妙子の命も。
 ただ、終わったことを認めたくないだけ。
 しかし終わったことを認めたくないということはつまり、自分は望んでしまっているのだ――狂ってしまう前の日常に回帰することを。
 飯島の父さんが死ぬより前。
 安藤がコンピュータに恋をする前。
 安藤の父さんが死ぬより前。
 自分が妙子の存在を知るより前。
 安藤と飯島と三人で――無駄な時間を楽しく消費していた、あの頃に。

 「戻りたい」という言葉が口から出かけたけれど、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
 もう、戻れはしない。
 もし再会できたとしても、どう頑張ったって、安藤は裕子のことを考えている。飯島は死んだ父さんのことを考えている。自分は妙子のことと、安藤と飯島のことと、そして何を考えているかわからない自分のことを考えている。冷静に思考しているように思ってもそれは幻想で、自分は狂っている。それを忘れてはいけない。狂っていることを自覚したうえで狂っている。たぶん、この思考もそのうち消えてなくなり、別の思考や衝動が自分を支配する時が来る。安藤に会いたい、安藤の友達に戻りたい――そんなつまらない感傷は、きっと消えてなくなるから、だから。

 だから、今は震えながら朝を待とう――そう金田は思う。
 電柱に触れてみると、ひんやりとした無機物の感触が伝わってきて、あのコンピュータのことを思い出した。




100311