さかなのことひとのこと、わたし。
娘は万年反抗期。父親の言うことなんて聞きやしない。
宗介君は礼儀正しいけれどもどこか、冷たい。ひんやりと、岩のようにどっしりとした、冷たさを持っている。どうしてだろう、彼のことは、少し怖いと思う。冷静で優しく、顔立ちも整っている彼だが、わたしはどうにも座りの悪さを覚えてしまう。まあ、その座りの悪さは、彼が『人間』であるという事実から生じているのかもしれないけれど。どうしようもなく受け容れがたい現実というものが世の中には存在するもので、人間と折り合いをつけなくてはいけないこの現状こそ、わたしにとって最大の試練だ。
妻はといえば、最高、むしろ崇高、としか言いようのないくらいにできた女なのだが、残念ながら彼女はこの家庭の一部ではない。ありあまる愛情はあっても、存在がこの場所にない。なぜなら、彼女は常に世界の海を旅しているからだ。
毎日、幸せなのになんだか、胃が痛い。
そんな矛盾した日常に、わたしは生きている。
「あの。これから、映画館に行くんですけれど」
宗介君が、唐突にわたしに話しかけてきた。その背後では、娘が少しだけめかしこんだワンピース姿で立っている。ここ最近彼女は色気づいてきたようで、どこか母親に似ている妖艶さを醸し出しているように見えるのはわたしの気のせいであってほしい、うん。
「えっと、それがどうしたのかな」
わたしはできるだけ父親の威厳を保ちつつ、こほんと咳払いする。
「あの、フジモトさんもどうですか、一緒に」
宗介君は笑顔でそんな提案をしてきたが、「ええええー!! 二人っきりじゃないの?」と少女が抗議の声を上げている。どうやら、この提案は彼の独断らしい。いまだに名字で呼ばれるのは少し妙に感じるのだが、この呼び名以外で呼ばれてもそれはそれで落ちつかないので、これでいいか、と思う次第である。『お義父さん』と呼ばれるよりはずっといい。というか、そんな呼び方は断固として許さない。
「ポニョ、フジモトと行くのはやだー。ソースケと二人っきりがいいー」
背後でむくれて騒ぎ出す娘を軽く片手で制しながら(こういう要領の良さが憎らしい)、宗介君はおずおずと発言する。
「あの、フジモトさんはここ最近、研究で部屋にこもりっきりでしょう? ちょっと、ガス抜きしてもいいんじゃないでしょうか。お節介かもしれないですが」
最後にちゃっかり謙遜を入れ、わたしの逃げ場を奪っている。うーん、どうしたものか。と思いながら我が娘に視線を移す。……ゴートゥーヘル!とでも言いたげににらみ返された。うむ、この嫌われっぷりは何年たっても変わらないようだ。苦笑、するしかない。
「……わたしは、いいよ。二人で行っておいで」
できるだけ威厳のある父親風に言ってみたのだが、二人、という単語を発音する際、ちょっと噛みそうになった。本当は娘と彼を二人っきりにするのはわたしの本意ではないのだ。が、むくれた娘の隣でスクリーンとにらめっこをするのも当然、本意なんかではないわけだし、ポップコーンなどという人間の邪心の化身のような炭水化物を摂取するのもぞっとしない。結論は初めから出ていた。
「そうですか……では、二人で行ってきますね」
聡明な宗介君は、断られる展開を見越していたのだろう。あっさりと引きさがり、娘の手を引いて去っていく。彼の手はあまりにも自然に、彼女の手をつかんだ。その自然さこそ、何よりも妬ましくて、何よりも美しい――絆の証だった。わたしはいまだに、そんな風に誰かに触れることはできない。娘にも、妻にも。
しばらく、去っていく二人の後姿を見送っていた。頭がぼーっとしているのは、睡眠不足のせいだけではないかもしれない。ほほえましくない恋人たちの姿が見えなくなるころ、二人が見る映画が、ラブストーリーではありませんように、と、唐突に心に願いが生じた。わりと切実な願いかもしれない。
そして、宗介君に言われた単語――ガス抜きをした方が――を思い返して、久々に海に出ようかな、と思った。海は、唯一わたしに触れることを許してくれる。そしてその海と、偉大なる妻は世界のどこかでつながっているはずだ。海に触れていれば、きっといつか、答えが見つかる。それが質問すら見えない答えでも、いずれ。
わたしは伸びをして、海のように青い空を、小さな窓から眺めた。
わたしの世界は相変わらず小さいけれど、でも、これでいいのだ。と考えつつ、とりあえず上着をはおることにした。
091124