その後、サウンドノベルの制作は順調に進んだ。しかしぼくはプログラムをいじくりまわしながら、ため息ばかりついていた。時折部室にやって来る彼女の目を見ることすらできない始末だった。彼女に対して、なんだかうしろめたい気持ちを抱いている自分に、ぼくは気づいた。意識すればするほど、彼女に近づけなくなった。ぼくは臆病になっていた。何故、報われない恋だと知っているのに、ぼくは彼女を好きであることをやめられないのだろう。ひたすらにぼくは悩んだ。悩みぬいたけれど、答えは出なかった。

一方、ノベルのプログラム作業は着々と進行していたのだが、ある日、忘れられない出来事が起きた。
部室に残って一人で作業の仕上げをしていたぼくに、突然部室に入ってきた長門有希が話しかけてきたのである。夕暮れの薄暗い部室で二人っきり――ぼくはそんなことを意識してどぎまぎしていたのだったが、彼女の方は全く意に介さぬ風で涼しい顔をしていた。彼女はぼくの方へすたすたと近づきながら、こう切り出した。
「今日、部活動中にあなたがついたため息の数は58」
「……へ?」
「作業能率も17%ほど落ちている」
彼女は淡々とそう述べた。
「……何か、あった」
最後に付け加えられたその言葉が、疑問形だということに気づくまでに数秒かかった。つまり彼女は……ここ最近のぼくが作業中にうわの空なのに気づいて、心配してくれた、ということだろうか。
ぼくはそれを嬉しく感じ、緊張しながら言った。
「心配してくれてありがとう。でも、何もないよ。ぼくはただ、君が……」
「わたしが、何」
彼女がそう尋ねながらぼくの目をじっと見たので、ぼくは自分の中にある気持ちを彼女の目が見透かしてしまうのではないかとひやひやした。
「な、なんでもないよ。あ、そうだ、もう遅いから、ぼくが家まで」
「いい」
ぼくが言い終わる前に、彼女はぼくの誘いを断った。
いつもなら引き下がっているところなのだが、ぼくはなぜかそのとき、彼女に食い下がった。
「いや! 女の子を一人で帰らせるなんてできない。送るよ」
もう一度断られたらどうしようかと思ったけれど、彼女は断らなかった。ただ「そう」と頷いて、先に部室の外へと出て行った。


好きな後輩の女の子と二人っきりの下校。憧れのシチュエーションだったが、ぼくは緊張しすぎてそれどころではなかった。
ぼくが何か言っては彼女が「そう」と相槌を打つ。そこで会話が途切れるので、ぼくはまたつまらないことを言う。そしてまた相槌が返ってきて会話が終わる。そんなことを何回か繰り返しているうちに、ぼくらは黙りこんだ。
「          」
ぼくは最初、風の音か何かかと思った。
それは人間の――長門有希の声だった。
彼女からぼくに話しかけてくるなんて思いもしなかったし、あまりに小さな声だったので、ぼくは聞き逃しそうになったのだ。
「え? な、何?」
と聞き返すと、彼女は繰り返してくれた。しかしその言葉はあまりに不可思議なものだった。
「あなたの、わらびもち」
「わ……らびもち?」
何のことだろう。
少し考えて、ぼくは思い出した。
そういえば数か月前、ぼくの冷蔵庫に入っていたわらびもちがいつのまにか消えていたことがあった。そのとき、なぜかそれまでの数日間の記憶も同時に消えていたのだが、特に害はなかったし、誰に聞いてもその間のぼくの行動を知る者はいなかったので、やむなく放っておいたのである。
その後はいつもどおりの生活を送っていたのだが、一部、ぼくを見る目が変わった連中がいた。SOS団の奴らだ。団長はなんだか値踏みするような目でぼくを見、「あんな冴えない男の、どこがいいのかしら」などと言っているし、団員の一人には、彼女はいるかなどと聞かれたりした。他の団員――長門有希も含めて――もなんだか憐れむようにぼくを見ているような気がした。ぼくはそれを、パソコン馬鹿のぼくに彼女がいないことをネタにして噂でもされているのかと思ったのだが、違ったのだろうか。
彼女はこう続けた。
「おいしいと言っていた」
ますます不可解だったが、ぼくはこう聞いた。
「だ、誰がだい?」
返ってきた答えは、ぼくを更なる混乱へと陥れた。
「涼宮ハルヒ」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
何か尋ねてもよかったのだが、なんだか思い出したくないことを思い出してしまうような嫌な予感がして、ぼくは思いとどまった。
ぼくはカマドウマという虫がひどく苦手なのだが、空白の数日間を思い出そうとすると、なぜかそのカマドウマの姿が浮かんできてぼくを悩ませるのである。それを繰り返しているうちに、きっとこの記憶は思い出さない方がいいものなのだと考えるようになった。そして忘れた……はずだった。
それがなぜ今になって、彼女からこんな不思議な言葉を聞くことになるのだろうか。ぼくの、消えたわらびもちを食べたのがSOS団団長? そんな馬鹿なことがあるはずはない。大体、彼女はぼくのマンションに来たことなどないはずだ。しかし、聡明な長門有希が意味もなくそんな妄言を吐くとも思えない。あの数日間に何が起こったというのだろう。ぼくには想像もつかなかった。
それからは一言も会話を交わさずに、ひたすらにぼくらは歩いた。彼女のマンションの前で、ぼくらは別れた。彼女はいつものように凛としていた。ぼくはそんな彼女を無言で見送った。
ぼくの知らない、あの数日間のことを、彼女は知っているのだろうか。
彼女は、そして涼宮ハルヒは、いったい何者、なんだろうか。



それから数日間、ぼくは学校を休んだ。
ぼくの頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
自室のベッドの上でひざを抱えて座り、ぼくは悶々としていた。
彼女が、ぼくの様子が普段と違うことに気づいてくれた。わざわざそのことで声をかけてくれた。一緒に下校してくれた。それらの事実は、踊りだしてしまいそうに嬉しいものだったのだが、それゆえに、彼女のあの言葉の真意が気になった。ぼくの消えたわらびもちの行方を示唆するような、あの――
彼女に、すべてを聞いてしまいたい。彼女の言うわらびもちとは、ぼくの冷蔵庫に入っていたあのわらびもちのことなのか。もしそうであるなら、あの空白の数日間のことを、彼女は知っているのか。涼宮ハルヒはそれにどう関わっているのか。あのとき、ぼくの身には何が起きていたのか。
ぼくは考えた。考え抜いた。
そして、ひとつ、大切な大切な、ある決意をした。
「よし!決めたぞ!」
自分に言い聞かせるようにそう叫んで立ち上がった。ちょうどそのとき。
ピンポーン
と、呼び鈴が鳴った。ぼくは玄関へと走った。
「はい」とぼくがドア越しに、来訪者に声をかけると、
「わたし」
と短く相手が返答した。短く簡潔な受け答え――彼女だった。
今まで頭の中で思い描いていた相手がいきなり訪ねてきたという事実に驚いてぼくは、
「へぁ!?」
と妙な声をあげてしまった。
彼女はそんなぼくにはまったく構わず、
「……心配していた」
とぼそりと言った。
「部活のみんながかい?」
「そう」
「それだけ、言いに来てくれたのかい?」
彼女は少しだけ間をおいて、「そう」と言った。
もう用を果たしたと思ったのだろう、すたすたと廊下を歩き出す彼女の足音が聞こえた。ぼくは瞬時迷ったけれど、結局、ドアを開けて、靴もはかずに外へ飛び出した。彼女がゆっくりと振り返る。晴れた空のように透きとおった両目が、ぼくを見据えた。
「あっ、あの、長門、さん」
数日部屋に閉じこもっていたぼくの声は、かすれていて聞き取りづらかった。けれど、ぼくはそんなことに構ってはいられなかった。
先ほどした「決意」を――実行に移さなければ。
そう思ってぼくは自分を奮い立たせ、叫んだ。

「ぼくはっ……ぼくは! 君が、好きだ」

長門有希は黙っていた。ぼくは、付け加えるように言う。
「あの夏の数日間、君とSOS団団長が何をしていて、ぼくはいったいどういう状況にあったのか。君は何者なのか。ぼくは最初、それを君に尋ねようと思った」
彼女なら、ぼくが尋ねれば本当のことを教えてくれただろう。どんなに不可思議な事実だとしても、彼女の言葉なら信じられる。
でも――
「でも、ぼくは考えて、何も聞かないことに決めた。どんな事実が裏にあったとしても、君がぼくの知らない何かを隠しているとしても、君が君である事実は揺るがない。君が、どんな奇想天外なバックグラウンドを持っていたとしても……君は、君だから」
ぼくは彼女の前に一歩踏み出し、一呼吸おいてから言った。
「君がどんな秘密をもっていたって、君が、ぼくの好きになった『長門有希』だってことは、絶対に、揺るがない事実だから」
長門有希は黙っていた。相槌を打つことも、返事をすることもなく、ただそこに立って、ぼくを見ていた。
どれだけの時間沈黙が続いたのだろう。それは数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。皮膚に突き刺さる静けさに耐え切れず、ぼくは彼女に背を向け、
「君の返事くらい言わなくてもわかってるんだ!」
と叫びながら自室へと続くドアを押しあけた。
「だって、君の好きなのは、『彼』なんだから!」
そう言ってぼくは自室へ飛び込み、ドアを閉めてしまった。
彼女はそのとき、いったいどんな顔で、どんな表情で、どんな気持ちで、ぼくを見ていたのだろう。それは、ぼくには知りようのないことだった。



さて――その後のことはあまり語る必要はないかもしれない。というか、あえて語るようなことは何もなかった。
ぼくは彼女に告白した。そして返事を聞かずに追い返してしまった。
彼女は怒っていたかもしれない。いや、もう部室に来てはくれないかもしれない。
ぼくはそんな不安に捕らわれていたのだが、それは杞憂にすぎず、翌日、長門有希は部室へ姿を見せた。いつもどおりPCを華麗に操るだけ操り、彼女は帰っていった。ぼくの告白など忘れているのではないか、いやあれはぼくの見た白昼夢だったのではないか、と心配になるほどのノータッチぶりだった。それからもずっと、彼女は一定の頻度で部室に現れたが、あのときのことを口に出すことは結局一度もなかった。これはふられてしまったのだな、とぼくは勝手に解釈した。ふられて悲しいという気持ちがないわけではなかったけれど、思いを伝えられてよかった、という爽快感の方が勝っていた。
悔いはない。
これで、よかったのだ。
ぼくはそう決めつけて、元通りの生活へと回帰していった。



++++



その日は、誰かが謀ったかのように快晴だった。
桜のつぼみがふくらみ、淡い色の花を咲かそうとしている。
そのときぼくは、桜を眺めながら、ぼくをこの桜の木の下へ呼び出した後輩を待っていた。
今日はぼくらの卒業式だ。もう、この学校へ来ることはないだろう。
彼女に会うことも、もう、ないのだ。
そんなことを考えていると、一陣の強い風が吹き、開きかけた桜のつぼみから一枚、花びらが舞い落ちて弧を描いた。それを目で追っていると、その花びらの背後にぼくを呼び出した彼女――長門有希が立っていた。他の誰でもないぼくを、そのきれいな瞳にうつして。夢のような光景だと僕は思ったが、それは夢でも白昼夢でもなく、現実だった。
「あなたに」
彼女が僕に語りかけた。
「伝えたいことがある」
ぼくはどきりとしつつ、こう返した。
「何かな?」
そう言ったぼくの声はかっこう悪く裏返ってしまったが、彼女はそれを笑うこともなく――否、彼女がそんなことで笑ったりするはずがないことをぼくはよく知っているのだが――言った。

「あなたのこと、嫌いでは、なかった」

いつもどおりの無表情。いつもどおりの、抑揚のない声。
そこにいたのは変わらない彼女だった。いつもの、彼女だった。ぼくには、そのことがなぜかとても嬉しいことに思えた。彼女の本当の気持ちを、ようやく聞くことができた。それだけで、ぼくの心は弾んだ。

「――ありがとう。」

その一言は、すっと、自然に口から出てきた。彼女は笑うことも返事をすることもなく、背を向けて去っていく。彼女に会うことは、おそらくもう二度とないだろう。この初恋が成就することも、彼女がぼくのために笑顔になることも、もう二度とないに違いない。
それは悲しい事実だったけれど、不思議と寂しくはなかった。
たぶん、今日、この桜と青空の下でぼくを見ていた彼女の姿と声が、ぼくの中に焼き付いて美しい思い出になったからだろう。ぼくの初恋は実らずに終わっていくけれど、ぼくは彼女を好きになったことを後悔しない。思い出は色あせずにいつまでもぼくの中で生き続けるだろう。そしてその記憶が残っている限り、ぼくは彼女に抱いた淡い恋心を忘れないだろう。この尊い感情と大切な思い出をくれた彼女には、最大級の賛辞を送りたい――そんな風に思う次第である。



071211


部長は常に自己完結してしまっている人というイメージがあります
あと純情すぎて奥手すぎて前に進まない!みたいなかんじ
長門はキョンと話すようになってからは、
人を思いやることを覚えたんじゃないかな!と勝手に思ってます