空は見事な快晴だ。本来ならば広い場所に出て何か運動でもすべき天候なのかもしれないが、わたしはいつもどおり公園で読書をしている。文字と戯れることは実に心地よい遊びである。人間のみに許されるこの知の遊戯は、どんな運動よりもわたしを満ち足りた気分へと導いてくれる。 ところで、今日はまだ、「クロエ」は現れていない。もしかしたらもう永遠に彼女がここに来ることはないのかもしれない。話し相手がいないのは少しだけ退屈だけれど、きっと、それもまたいいだろう。わたしはただ、あるがままのすべてを受け入れるだけだ。一部の例外を除き、わたしが積極的に何かに干渉するこということはあり得ない。わたしはあくまで観測者としての立場を貫くことを信条としているのだ。 誰も知ることのない春の日の物語 その日、午後二時二十分二十一秒、わたしの思考を遮る来訪者があった。それはわたしの背後に立っていた。太陽は私の後方にあるので、ちょうど日の光が遮られてわたしの手にある本に影をつくるかっこうになっている。わたしが振り返ると、そこに立った人物は少し疲れた顔でこう言った。 「……ぼんそわー」 普段より妙に発音に歯切れがないその人物は、わたしのよく知る男だった。 「なんだか元気がない様子だが、どうかしたのかね、イヴェール君」 彼は、"寂しいと死んでしまう"という表現が比喩にならないというほどの寂しがり屋であり、そして何よりかまわれたがりであるので、わたしはそう問いを投げかけてみた。ここで冷たくあしらったり無視したりすると、おそらくこの男は自分の殻に閉じこもってしまうため、注意が必要である。ちなみに、ここで言う"自分の殻"という表現は心情的な意味のみでなく、もっと深刻な意味をもはらんでいるのだが、まあ、それについて言及するのは今はやめておくとしよう。とりあえず、うさぎよりも繊細な神経を持つ男なのである。 イヴェール・ローランは、わたしが自分の話を聞いてくれると理解したらしく、少し嬉しそうな表情になった。彼は「聞いておくれよ」と前置きをして話しはじめた。 「オルタンシアとヴィオレッタが……」 彼の話はたいてい、この二人の少女の名前から始まる。というのは実は当然のことで、彼のいる世界にはこの二人以外の人間は存在しないのである。ごくまれにわたしのような他の次元の人間とかかわりを持つこともあるようだが、基本的に彼の周囲には金色の美しい髪を持つ人形のような双子の少女しか存在を許されていない。それはなぜか、そして彼のいる世界とはいったいどこにある何という場所なのか、そんな無粋な問いにいちいち答えるほどわたしは暇ではないので、それも省略させていただこう。 イヴェールはこう続けた。 「……ぼくのおやつを取り上げてしまったんだ」 しばしの沈黙ののち、わたしは深呼吸をして、笑いをこらえながらこう問い返した。 「……おやつだって?」 「そう、おやつだよ、ぼくの大事な大事な!」 彼はオーバーなリアクションをとりながら真顔で答えた。どうやら冗談の類ではないらしい。いや、そもそも彼が冗談や嘘を言うことのできない不器用な人間であることくらいは、わたしは熟知しているのだけれども。 「で、そのおやつというのは?」 生粋の世間知らず――この男より世間を知らない人間などどこにもいようはずもないのだが――であるイヴェール・ローランにまともな会話を期待する方が間違っているのだ、と心中で唱えながらわたしは訊いた。わたしの苦悩など露ほどもわかっていない彼は、こう答えた。 「ぼくがわざわざ広島から取り寄せたもみじまんじゅうだよ! すごく高かったのに!」 「キミはまだいろんなところから銘菓を取り寄せていたのか……」 彼の趣味は通信販売でいろいろなものを購入することである。しかし、彼がどのような手段を用いてそれを行っているのか、それはまったくもって不明である。彼には彼のネットワークが存在するのかもしれないし、何か道理をねじまげるような無茶をやらかしているのかもしれないが、それはわたしがどうこう言えるようなことではないのだ。 わたしは、家族のないひきこもり男性が、有名な銘菓を通販で注文することで寂しさを紛らわすことがあるとこの間読んだ本に書かれていたのを思い出す。なんでも、彼らにとって銘菓は「家族みんなで食べるもの」、団らんの象徴なのだそうである。双子の少女は厳密には彼の家族ではないので、この男も広義に解釈すれば、"家族のいないひきこもり男性"といえなくもない。すべての世界と切り離された場所にいるように見えて、さりげなく世間と呼応しているということか。まったくもって、興味深い男である。そんな彼は、その無垢な瞳を少し伏せ、 「あれは陛下と一緒に食べる予定だったのに……」 と悲しげに呟いた。なんだか大仰な呼び名だが、この陛下という人物はイヴェールの数少ない友人の一人であるらしい。しかしながら、その呼び名と、作曲が趣味であるらしいということ以外はよくわからない、謎の人物である。あるいはイヴェールに聞けば教えてくれるのかもしれないが、そこまでする必要性は感じないので、わたしはそのままにしている。知らないことが多い方が、人生は楽しめるものなのだ。 わたしはしょんぼりとしてしまった彼の表情を見て、やれやれ、とつぶやきながら上着のポケットを探った。そこから取り出した小さなキャンディを、わたしは彼にそっと手渡した。 「仕方ない、わたしの持っている食料をキミにあげよう。これで元気を出したまえ」 「これ、くれるのかい? サヴァン」 ぱちぱちと瞬きをして、彼は子供のようにその包みを破って開け、中身を口に放り込んだ。 「ん。おいひい!」 と幸せそうに笑顔になる彼を見ながら、わたしもつられて笑いかけたが、しかし、 「でも、こんなもので満足していいものだろうか。それが最大の、謂わば問題だ……」 と彼が難しい顔で言うので、わたしは笑うのをやめてこう言った。 「人のセリフをさりげなく真似するのはやめてくれるかね、イヴェ君」 わたしのアイデンティティに関わるのだよ、と真面目な顔でわたしが口にすると、案の定彼は、「アイデンティティとは何だい?」と首をかしげた。何も知らないというのも厄介なものだなとわたしはつくづく思った。 彼はしばらくの間、キャンディの素朴な風味を楽しんでいたが、舐め終わるとまた沈んだ表情に戻ってしまった。今回の彼の憂鬱は相当根が深いようだなと思考しつつ、わたしは「残念だったね」と彼を慰めてみた。しかしながら、このセリフはなんだか妙な感じを私に与えた。自分の言葉であって自分の言葉ではないような、自分とよく似てはいるが本質は異なる何かが発した言葉であるような、そんな奇妙な感覚である。なぜこんなふうに感じるのか、それは賢者と呼ばれるわたしでもよくはわからない。ただの気のせいであればいいのだが。 「それだけじゃない」 と彼は言い、わたしは意識をそちらへと引き戻した。 「オルタンシアは、ぼくの大切な友達の口を縫い付けてしまったんだ」 淡々と述べられた衝撃的な事実に、わたしは耳を疑ったが、やがてしばらくして、彼のいう友達というのが人とは限らないという事実に思い当たり、こう問うた。 「その、君の気の毒なお友達というのは?」 イヴェールは痛ましそうに眉をよせ、 「……ぬいぐるみさ。うさぎの」 彼はそう答えた。わたしは安堵した。まったく、この男といると妙なことでハラハラしてしまう。 しかし、よく考えればぬいぐるみの口を縫い付けるというのも十分に残酷な所業である。何を思って彼女はそんなことをしたのだろう。 と、そんなことを考えていたわたしに対して答えるように、誰か――上品な少女の、声がした。 「わたくしがそんなことをしたのは、ムッシューがいつまでもぬいぐるみ離れができていないからですわ」 「そうよ、ムッシューったら、一日中ぬいぐるみと会話しているのだもの。気味が悪いったらないわ」 呼応するようにそう付け加えたのはオルタンシアに似て非なる少女――ヴィオレッタ。 いつのまにかわたしの背後には、双子の少女が並んでたたずんでいた。 「そんなことより」と二人は同時に言った。ステレオボイスを聞いているかのようだとわたしは思った。二人は妙にかしこまった調子でそれぞれに、 「ムッシュー、こんなところで何ごとかお悩みですの?」 「わたくしたちでよければ、話し相手になってさしあげましょうか」 と言った。まったく、近頃は人のセリフを模倣することが流行しているのだろうか。わたしのアイデンティティは崩壊寸前である。 少女たちはわたしの表情が陰っていることには興味がないようで、何事もなかったかのように言葉を続けた。 「どうしてお部屋から勝手に抜け出してこんなところにいるのかしら、ムッシュ。ムッシュー・サヴァンの知的な遊戯のお邪魔をしてはだめじゃない」 知的な遊戯、という単語に皮肉げにアクセントをつけながらオルタンシアが言った。どうやら彼女は、わたしの高尚な趣味がお気に召さないらしい。 「ど、どうしてここにぼくがいると……?」 おそるおそるイヴェールがそう言った。その声は震えている。彼が草食動物だとするなら、双子の少女は肉食獣である。絶対的な食物連鎖というものがこの世には存在するけれども、人間の間にもそういった絶対的な力関係というものはごくたまに、ある。 双子の少女はにっこりと笑んだ。彼女たちがほほ笑むとき、たいていイヴェールはうさぎのように縮みあがっている。悪魔の微笑というやつだ。 「ひきこもりの行動パターンと行動範囲を予測するのは、きっと何よりも簡単だと思いますわ」 案の定、きつい言葉を少女は投げた。イヴェールの胸に言葉のナイフが刺さるのが見えた気がした。 「ぼ、ぼくはただ……サヴァンに素敵な物語を聞かせてあげようと……」 「物語」という単語の代わりに、イヴェールはロマンという言葉を使った。 「ムッシュの人生を今ここでかき消してあげてもよろしくてよ?」 とヴィオレッタがあっさりと言った――ちなみに、彼女も「人生」という単語の代わりにロマンという言葉を使用した――ちょっとした言葉の応酬である。 「ごめんなさい許してください」 とイヴェールはすっかりしおれた表情で言った。今にも生まれてくる前に死んでしまいそうな顔である。 「あの……僭越ながら、ちょっといいかね、マドモアゼルたち」 とわたしは聞いた。なあに、ムッシュー・サヴァン、とステレオボイスが答える。 「彼は反省しているようだし、もう……」 とわたしは提案しようとしたが、 「賢者様は少々ムッシュに甘くてよ。過保護なのではなくて?」 とヴィオレッタの毒舌が飛んできた。 わたしは自らを奮い立たせ、 「確かにわたしはイヴェ君に甘いかもしれない。それは自分でも認識しているよ。しかし、君たちは、少し彼に厳しすぎるのではないかと思うわけなのだが……」 少女たちの目がぎらりと光った。狩りをする者の目だ。 「今、何かおっしゃったかしら、ムッシュー?」 背筋がぞくりとした。今、わたしは狩られる側にいるのだ。それをひしひしと感じる。 「いえ、何も言ってはいませんぞ」 渇いた喉から言葉を絞り出すと、「そうですか」とやわらかい笑顔を返された。どうやらわたしの命の危機は去ったらしいが、彼の危機はまだ去ってはいないのだろう。とわたしは思っていたのだが、予想に反して双子の少女は晴れやかな顔になって、イヴェールの手をそれぞれにとり、 「さあ、お部屋に帰りましょう?」 と同時に言った。イヴェールももう震えてはいない。彼は二人に引っ張られながら歩きだした。どうやら、この身が凍るようなやり取りは、彼ら三人の中では日常茶飯事であるらしかった。わたしが口をはさむまでもなかったのだ。 「オルボワー、サヴァン!」 公園の出口へと向かいながら、彼はこちらを振り向いてそう叫んだ。わたしは無言で手を振った。 騒がしい一日だったな、とわたしは考えた。たまにはこういうにぎやかな時間を過ごすのも悪くない。むろん、読書の時間は減ってしまうし、あの双子の少女の毒牙の餌食になるのもあまり気が進むことではないのだが、それらを差し引いても、彼らと過ごす時間はかけがえのないものだと思える。それはきっと、イヴェールという存在がわたしや少女たちにとって特別なものだからだろう。イヴェール・ローランという存在は、きっといつか、この世界にとって重要な意味を為す。そのときのために、彼はたくさんの障害を、物語を、――ロマンを、越えていくのだろう。その手伝いができるのなら、わたしはいくらでも尽力するつもりだ。 080423 サンホラ熱が高じてこんな妄想話になりました ヤマもオチも意味もなく雰囲気だけの話になりましたが、こんなかんじの四人がだいすきな一SH国民であります タイトルの中の「物語」は言うまでもなくあの読み方で読んでいただければ幸いです |