彼が来なくなってから気づいた。
 わたしは彼の語る言葉が好きだったのだ。
 悲しみを因数分解したところで悲しみは消えてなくならないし、幸せの最大公約数を求めても幸せになれるわけじゃない。ただ、少し生きやすくなるだけだ。彼がくれたのは、ほんの少しだけの救済、だった。
 それでも、わたしは彼の説く世界の真理を聞いていたかった。
 めくるめく言葉の魔法。
 わたしにとっての彼は、賢者というより魔法使いだった。


 ベンチに腰かけながら、ぼんやりとあの人のことを考える。そして、「今日は、来ないのだろうか」――と彼を待っている自分に気づく。苦笑してしまう。本名も知らない、胡散臭い「彼」のことを、どうして自分は待っているのだろうか。そんな資格はないというのに。


 あの人に会ってから、目を泣き腫らしながら眠る回数が減った。
 もちろん、不幸はずっとわたしの中にあって、悩みの種も消えない。よどんだ泥のように心に沈殿する悲しみも。ただ、心は軽くなったような気がするのだ。
 彼は明るくて、聡明で、優しい。
 メルシー、とわたしは彼に言ったが……そんな一言では済ませないくらいに、彼には感謝している。だから、もう一度会ってお礼を言いたい。
 そして、もう一度彼に会うことができたなら――彼が口を開くよりも先に、こう言おうと思っている。
「今度はわたしがあなたの……話し相手になりたい」……と。


 ベンチに座ったまま見上げる空は透き通るように青く、白い雲は星でも含んだかのようにきらきら光る。さわやかに、風が吹き抜けていく。その風は雲を、どこか遠くへと運んでいくのだろう。
 わたしもこれから、波に呑まれるように遠くへと運ばれて行ってしまうかもしれない。決断したことを後悔することもあるかもしれない。でも、彼の言葉があれば前に進めると思うのだ。あの知性に満ちた声で、背中を押してもらえれば。きっと、地平線の果てまででも進んでいける。少なくとも今は、そう信じている。


090213

クロエとクリストフの関係が好きすぎる。