turnabout
あの日、秋野秀和と瀬在丸紅子は、牢獄の中でいったい何を話したのだろう。
考えても考えても答えの出ない、無駄な問いだった。誰に聞いてもわかるはずがない、しかし気になって仕方がない。そんな疑問。
そもそも、あの二人はいったいどんな関係だったのだろう。どうして、秋野は紅子に文通のことを打ち明けたのだろう。おそらく、少なくとも彼にとって紅子は特別な存在で……そして、そのことは保呂草の知る秋野の人格と照らし合わせても、しっくりくる。彼はそういう人間だ。彼なら紅子に惹かれるだろう、と保呂草は紅子を見るたびに思う。保呂草がどうしようもなく彼女に惹かれるのは、保呂草も秋野と同じものを心のどこかに抱いているからだろう。紅子を羨ましいと思う、可憐だと思う、美しいと思う――そういう考えに至ってしまう、宿命の遺伝子のようなものを。
紅子の中には保呂草潤平が二人存在する。秋野秀和と、自分。本質においてまったく違うけれどもどこか本物の保呂草に似たパーソナリティを持つ秋野が、彼女の中でもう一人の「保呂草潤平」として重要な位置を占めていることは、当の保呂草にしてみれば複雑なことだ。彼は確かに親友だし、いい奴だ。しかし、それとこれとはまた次元が違う。
保呂草は、自分を自分として、自分だけとして、認識してほしい。そこに秋野の印象を混ぜ込んでほしくない。彼が殺人者だからではなく、個性の区別をつけてほしいからだ。
保呂草は保呂草として。
秋野は秋野として。
秋野は保呂草ではないし、保呂草は秋野ではないのだから。
だが、秋野は人を殺したことにより、「保呂草潤平」ではなくなった――その事実は、保呂草の中ではかなり重い。
もし、人を殺せば彼女に振り向いてもらえるのなら。
自分は、殺すだろうか。殺してしまうだろうか。
たぶん殺さないだろう。でも、断言はできない。
いずれそうなる遺伝子というものが自分の中にあるのなら、そうなってしまう確率はゼロではないのかもしれない。
わからない。
保呂草には、その事実はまだ予測できない。だからこそ、不安なのだ。
いろんなことをまぜこぜにしたまま、保呂草は紅子に相談を持ちかけた。彼女と二人きりになると、なぜかいつもこういう秘密についての話になる。妙に後ろめたい気分だ。説明している途中で、保呂草は自分でも何を言っているのかわからなくなったような錯覚にとらわれたが、紅子は黙って最後まで聞いていた。
紅子は凛とした目のまま、こう言った。
「あなたはあなたのままでいいんです」
前向きな意味ではなく、これ以上悪化したら困るという意味です。と彼女は言い、さらにこう付け加える。
「これ以上、道を踏み外されたら困ります。本当に、許せなくなっちゃう」
「今は許してくれているんですか」
「許してません。というか、その、「くれている」という表現は気に食いません」
そう告げる彼女は、どうやらお怒りのようだ。
保呂草の言葉の端々が、彼女にとっては気に食わない要素らしい。
もしかすると存在自体が気に食わないのかもしれないが、それは考えないでおこう。
「たとえば、今僕が」
と何かを言いかけた保呂草の言葉を、紅子の言葉が遮る。
「最低です」
「まだ言ってないんですが」
「言わなくてもわかります」
しかし、保呂草自身はその先に何を言うつもりだったのか、よくわからない。
保呂草もわからずに口にしていた言葉の先にあるものを、紅子はわかっているという。言わなくても、わかると。
それは信頼だろうか。それとも、愚かさを見透かされているだけだろうか。
どちらでもかまわない、とりあえず、理解されているということなのだから――保呂草はそう結論付けて、煙草に火をつける。
「あなたは、わたしがあなたと秋野さんを混同しているようなことを言われるけれど」
紅子は、つぶやくように言う。
「わたしは、誰かと誰かを混同したりしません。秋野さんは秋野さん、保呂草さんは保呂草さんですもの」
「そう、ですよね」
水を浴びせられたような感覚。言われてみればそうだった。紅子は、秋野と保呂草をごちゃごちゃにして覚えたりしない。彼女の五感がそれを許すはずがない。保呂草の知る他の誰よりも聡明な紅子が、そんなことをするはずがない。どうして、そんなことすら忘れていたのだろう。
自分は、自分が思っていたよりもずっと、余裕をなくしていたのかもしれない。
秋野のこと、そして紅子のこと。保呂草自身も自覚していない保呂草のこと。
ひとつひとつの要素を丁寧に取り上げて、吟味して、理解する。綺麗に飲みこんで、最後まで飲み干す。
そんな作業を忘れるくらいに――自分は夢中だったのだ。紅子を追いかけることや、その他のいろいろなことに。
「ありがとうございます」
思わず礼を言った自分に、紅子が何を言うか、保呂草は最初からわかっていた。
「お礼を言われるようなことは、していません。何も」
優雅な笑みとともに、紅子は保呂草の予想通りのセリフを、予想通りの口調で告げる。その予定調和がとても心地よいものに思えて、保呂草もつられてほほ笑んでしまった。
090926