ロイコクロリディウム
うつぶせの体の、肩の部分を蹴ってひっくり返してみる。薬が効いているせいか、うめき声すら上げない。もう一度思い切り肩を蹴りあげると、「う……」とか細い声で呻いて、少し体を震わせた。起きる様子はまだない。
「あー、なんかこうなっちまうと張り合いねーな」
栄はそう呟いて、ぐったりとした隆明の方を見やる。
「なー、隆明先生。これからどうしてほしい? 今なら、要望聞いてやってもいいぜ」
もちろん、意識のない隆明は答えない。答えないと分かっているから言ったのだ。
長い間、このいけすかない医者のことは嫌いだった。彼女を手に入れたいのに、なぜかこの男がくっついてくる。いい雰囲気になってきたところで邪魔をする。殺してやりたいと思ったのは一度ではない。それこそ、八つ裂きにしてやりたいとすら思っていた。
しかし、こうして意識を失わせて、目の前に無様に転がしてみると――なぜか、殺してやりたいという感情は薄まってしまったように思える。こうなってしまった以上、この男が自分の邪魔をすることはもうないだろう。それならば、いちいち殺す必要なんてないのではないか、と思ってしまう。
人を殺すのが怖いというわけではない。これが隆明ではない別の人間だったら、自分は躊躇なく殺しただろう。
「くそっ……自分で自分がわかんねーぜ。俺はどうしたいんだ」
つぶやいてはみるものの、答えは返ってこない。今は彼女もいないし、隆明はしばらく起きそうにない。意識を失った隆明と自分しかいない部屋は、びっくりするくらい静かだった。
暇なので、気絶したままの隆明の顔を見てみる。いけすかない男だが、顔かたちは端正だ。女性のように薄い唇。首も男にしては細すぎて、力を加えたら折れてしまいそうだった。
「さかえくん」……と、そんな風に彼は自分を呼ぶのだなと、その唇を見ていて、ふと思い出した。たいてい、その名前の後に続くのは嫌みばかりだった。献血をしろだの、病院食を残すなだの。でも実は、何度かちゃんと会話したことがある。
「ロイコクロリディウムって、知っていますか、栄くん」
普段、喧嘩しかしない相手であるのに、時折そんな風に普通に話すから、栄は少しふしぎに思っていた。
「なんだよ、それ。薬の名前か何かか?」
「違います。金持ちのボンボンは、知識すら乏しいのですね」
なんだと、とつかみかかりかけたが、ロイなんとかというのが気になったので、おさえた。
「で、それは何なんだよ、先生」
「ロイコクロリディウム。寄生虫の一種です。カタツムリの触角に寄生して、イモムシと同じ外見になり、鳥に食べられるのを待ちます。それをイモムシだと勘違いした鳥が食べ、今度は鳥に寄生する。鳥に排泄されたら、今度は鳥の排泄物を食べるカタツムリの中に再び侵入して、また虫のふりをする」
栄は、あまりにも現実離れした内容に唖然とした。自分の前で、そんな話をわざわざする意味がわからない。雑学をひけらかしたいわけでもないだろう。もともと変な先生だとは思っていたが、とうとう本当におかしくなってしまったのか……と考えていると、彼はそのままの声のトーンで、こう続けた。
「意味がわかりませんか?どうして今、そんな話をするんだろう、と思いますか?……それならそれでいいのです。私も、なぜ君にこんな話をする気になったのか、よくわからないんですから」
わからないなら、するなよ……と思いつつ、栄は黙っていた。
「ねえ、栄くん。ロイコクロリディウムは、結局、鳥とカタツムリ、どちらが好きなんでしょうね。カタツムリと一緒にいるときは虫のふりをして、鳥に食べられたいと思っている筈なのに……結局は鳥の中に永住しないで、カタツムリのところへ戻ってきてしまうんです」
「好きとか嫌いとか、そんな感情で動いてるわけねーだろ。虫と人間を一緒くたにするなんて、隆明先生も案外センチメンタルなんだな」
そう言ってやると、隆明は困惑したように視線を揺らした。この先生はわりと隙だらけで、こうやって困ったような顔になることが多い。敵の前でそんな顔を見せるなんて、バカみたいだな……と思いながら、栄はほくそ笑む。
「そう、ですね」……と、隆明は苦笑いしてみせた。敵のくせに、そうやって弱みを見せるから、栄は彼に対して冷たくなりきれない。それがいいことなのか悪いことなのかは置いておく。
「私は、鳥に食べられたくてここにいるはずでした。それだけが生きる目的だと、思ってました。でも、本当はそうじゃないのかもしれないと、最近、少しだけ思うんです……」
隆明は小さな声でそう言って、栄の部屋から出ていった。栄のベッドの上には、彼が忘れていったのであろう、ペンが一本落ちていた。隆明は、心が動揺すると、すぐにこうして何かを忘れたり、態度に出てしまう。敵ではあるのだが、余りにも隙が多すぎるな……と栄は少しだけ苦笑した。
ああ、先生。あんたの言うことは難しい。その上、びっくりするくらい、くだらない。
そんなことは考えるだけ無駄なのに。
そして、俺の前でそんなことを言ったって、運命は何も変わりやしないのに。
隆明のくだらない話は忘れることにして、栄はナースコールのボタンを押した。
彼女を呼んで、彼女と話すことで、さきほどの隆明の顔なんて忘れてしまおうと、そのときの栄は思った。
……どうして今になって、隆明と会話したときのことなんて思いだしているのだろう。
気絶した隆明の顔は無防備で無感情だ。自分が今彼を殺すと、その顔がもう二度と表情を作らなくなるのだと思うとなぜか悲しかった。苦痛にゆがむのでもいい、悲しくて涙を流すのでもいい。昔みたいに、困ったように笑うのでもいい。なんでもいいから、もう一度その目で自分を見てほしいという気がする。バカみたいな感傷かもしれない。でも、今の自分は、彼をあっさりと殺してしまうことはできない。大好きな彼女に懇願されたとしても、できないだろう。
鳥に食べられたいと思っていたのに、気付いたらカタツムリと一緒にいる――そんな虫の話を、彼はかつてしていたけれど。もしかすると、彼は気付いてしまったのかもしれない。自分が本当に一緒にいたいのは、誰なのかを。
栄は、頭の悪い自分自身を自覚しているから――そんな思い出はすぐに忘れてしまうことにした。自分に都合のよくない記憶なんて、向き合う価値がない。栄が好きなのは、彼女だ。今必要なのはそれだけだ。隆明のことなんてどうでもいい……と思いつつ、栄は靴の先でもう一度だけ、名残を惜しむように、隆明の肩を蹴りあげた。
20111108
ヤンデレ天国のこの二人が夫婦すぎる!と延々と言いつづけています。誰も書いていないっぽかったので、がんばって自家発電。
お互いがお互いを大好きで超必要としてるけど、二人ともそのことに全然気付いてない!!みたいなのがいいと思います。でもいちゃいちゃしてほしいです。ジレンマ。