「今日は雪の降る世界に行ったの」
「****」
「鳥人間が追いかけてきて、大変だったの」
「*****?」
「うん、そう。包丁で。先生も刺されたい?」
「……**」
「嘘。刺したりしないよ。先生のことは」
怖がらなくてもいいんだよ、と彼女は笑う。伏せた目を細めて、彼を見る。彼の目は彼女を見ない。彼女が何か言った言葉に対し、『先生』と呼ばれる彼は言葉にならない言葉で返答する。そんな応酬を、もう何時間繰り返しただろう。この白い空間は、きっと永遠に続いていくことができる。彼女が少し望むだけで、永遠は簡単に手に入る。彼女は創造主で、この世界の支配者なのだから。
 でも、通じない会話が永遠に続いても、苦痛なだけなのかもしれない。そう意識の端で思う。違う世界の彼女は、迷わず彼を刺して、新しい夢の世界へ旅立っていった。はっきりとは見えないしわからないが、そんな気がする。そして、このまま会話を続けていればいつかは、自分も「そう」することになる。それもなんとなくわかる。ここには何もない。彼が好きなピアノと、二つの椅子と、テーブル。大きくて白いベッド。それしかない。いずれは会話の種もなくなる。そうしたら、やることは一つしかない。包丁を取り出して、怖がる彼を刺して、自分の頬を少しつねるだけ。
 他の選択肢は徐々に奪われていく。もう、時間がない。
「先生、死ぬのは怖い?」
「****」
「消えるのは怖い?」
「*****」
「わたしは、誰かを消そうとする自分が怖いよ」
「…………」
彼は何も言わず。ただ、その黒目をくるくると動かすことで答える。
「自分のためなら包丁で誰かを消してもいい、って思う自分が怖い」
彼は何も言わない。
「先生は、ずっとわたしを待っていてくれたのに。だんだん、先生を刺すことしか考えられなくなる。他のことが考えられない。先生はわたしのために、わたしのぶんまで、この椅子を」
と彼女は白くてきれいな椅子に触れる。すこし冷たい。
「用意して、待っててくれたのに。そんなことをしてくれるの、この世界で先生だけ。なのに、もう」
彼女の思考が途絶える。会話は続かない。否応もなく終わる。刺したいという願望、この世界を終わらせて次の世界に行かなければ退屈と永遠につぶされて死んでしまうというプレッシャー。彼女の中をそれだけが支配して、何も見えなくなる。ここは袋小路だ。どこにもつながる可能性がない。
「……先生。もうだめみたい。さよならの時間。でも、この世界のわたしは、あなたを刺したくない。だから、先生に一つだけ、お願いしてもいいかな」
「***?」
「あのね、その手で、わたしの頬をつねってほしいの」
言葉だけでは伝わらないかもしれない、と思ったので、ジェスチャーで懸命に伝える。もう時間がない。早くしなければ。
 彼は黙って、その細くて黒くて骨ばった手を、伸ばした。どうやらちゃんと伝わったらしい。彼に彼女の気持ちが届いて、理解されたのはもしかしたら初めてだったかもしれない。
「ありがとう」
どういたしまして、と言うかわりに、彼はそっと手に力を込めて彼女の頬に触れ、そして――この世界は終わりを迎えた。ようやく、刃物の誘惑と悲劇のループから抜け出すことができた、と一瞬だけ思い……しかしすぐに、その記憶はリセットされて消えてなくなる。なかったことになる。まるで、降った雪が溶けてなくなるように、きわめて自然に。





 ベッドの上で目を覚ました彼女は、黒く細い人の影のようなものを見たような気がした。誰かはわからない。だが、ただ悲しさだけが強く残る。だって、この世界のどこにも、あの人は存在しない。自分の作りだした理想と幻影と憧憬が生んだ、一瞬だけの心地よい夢。その証拠に、その人が誰なのか、本当に人間だったのかすら、彼女には思い出せない。夢の中で見た風景は、曖昧なイメージだけを残して具体性を失い、もう二度と見ることはできない。どれだけ望んでも、楽しかったその場所に回帰することはできない。どうしようもない無力感に打ちひしがれながら、もう一度同じ夢を見たいと願いつつ、彼女は再び寝ようと試みた。意識は中空を漂うだけで、夢には落ちない。それが現実だった。

090417

先生は窓付きの思い描く理想の異性で、現実には存在しない『自分を待ってくれている』存在。みたいな解釈で。
船に椅子が二つあることをつきつめて考えていたらこうなりました。ベッドで眠らないと会えない、宇宙船にはベッドがある、とかいうあたりもよくよく考えると生々しい…