その瞬間が訪れると、一定の確率で「わたし」は狂う。心の本質が変化する。変質して別の個体になる。なぜかはわからないが、そう決まっているのだ。彼女の指がトリガーとなり、わたしという存在はわたしではなくなってしまう。まるで化け物のように、彼女を追い込んでしまう。もともと彼女に大したことをしてあげられなかったわたしが、さらに彼女に迷惑をかけてしまう事実が悲しくてたまらない。

「ねえ」
わたしが声をかけると、彼女が振りかえる。ふわり、と身軽に。黒いおさげ髪が揺れる、その仕草がとてもかわいいと感じた。
「何?」
「わたし、本当は化け物かもしれないのよ」
わたしは思い切って、そう告白する。彼女は動じない。
「別にいいよ」
「どうして?」
「だって、みんな化け物だもの。化け物しか存在しないもの」
淡々と告げる彼女の言葉は、平然としていて迷いがない。
「でも、あなたを困らせるかもしれないわ」
「全然いい。慣れてるし」
「あなたがよくても、わたしが、よくないと思うのよ」
ちょっとだけむっとした調子になってしまった。わたしは少しだけ、反省する。そんなわたしに、彼女は優しく声をかけてくれた。
「でも、今は何もしない。こうして、話してくれてる。それだけで、十分だと思うけどな」
彼女は微笑みながら続けてこう言った。
「わたしは、包丁で化け物を殺したりするよ。あなたが化け物なら、きっとわたしも化け物なの」
彼女は本当に強い、とわたしは今更のように感心する。強くなければ、『化け物』の中で生きていくことなんてできないだろう。しかし、彼女の心は本当は弱いのだ、とわたしは知っている。ただ、硬い殻に包まれて守られているから、強く見えるだけ。内側は、触れただけで砕けてしまうようなもろいものだ。
「誰だって、心の中には怖い化け物を飼ってるんだよ」
彼女はそう言ってまた笑顔になる。子供をあやすように、笑う。……本当は、そうしなくてはいけないのはわたしの方なのに。せめて、あの瞬間が訪れるまでは、できるだけ、彼女に幸せや癒しや安心を届けたい。そう思いつづけているけれど、なかなかうまくはいかないものだ。
「じゃあ、ひとつ、お願いがあるの。いい?」
わたしの声はどうしようもなく震えていて、彼女も深刻な空気を感じ取ったようだった。
「何かな」
「そこの、電気のスイッチを。押してくれる?」
切れ切れに、わたしはそう伝えた。どうしてそんなことを言ったのか。自分でもよくわからなかった。運命に抗いたかったのかもしれない。狂いの道しるべを乗り越えることで、狂ってしまうかもしれない可能性の輪廻から、抜け出したかったのかもしれない。「そこの電気のスイッチを、何があっても絶対に押さないで」と言えば、もっと簡単に運命から逃れることができただろう。けれどわたしはそうしなかった。あえて、可能性に挑むことを選んだ。
「……わかった」
彼女はわたしに背を向けて、すたすたと部屋の隅へと歩いていく。もしかしたら、彼女が振りかえるとき、わたしはもうここにはいないかもしれない。ふと、そんな風に思った。狂ってしまったわたしは、変化してしまったわたしは、もう今のわたしではないから。


 彼女が壁の方へ手を伸ばす。彼女の指先がそこに触れる。わたしは思わず目を閉じる。世界が切り替わるかもしれない予感が胸を締め付けて気分が悪くなる。吐き気がするような気さえする。
 ああ、神様。もしもいるのなら、彼女が振りかえるその顔を見せてください。
 彼女に微笑みを返す権利をください。
 他には何も望まない。ただ、それだけをくれればわたしは満足なのです。
 パチン、と軽く、世界を変える音が響こうとしていた。何度も聞いた音のはずなのに、その音の響きを思い出すことができない。もしかしたら、何も起きないかもしれない。その可能性の方がずっと大きいのに、少しの破滅の確率がわたしを震えさせる。
 64分の1の確率で、これからわたしは、狂う。

090705

ポニ子は窓付きの思い描く理想の友達、もしくは理想の母親……っていうマイ設定なんですが、百合っこでもいいかもしれないとふと思ったり。
ポニ子はもともとの本性がウボアなのか、ウボア≠ポニ子なのかわからないのが憎い演出ですよね…どっちなんだろうまじで。