ピアノと宇宙
幽霊を見たことがある。特に劇的な出来事ではなかった。まだ小学校に通っていた頃、夜に目を覚まして台所の方を見た。白く細い人のようなものが、ぼんやりとそこに在った。近づくことも話しかけることもなく、そのまましばらくそれを見つめていた。怖いとは思わなかった。ただ、ああ、こうして人は怪異に出会うのだなと――少しだけ、感心した。それだけ。話のネタにすらならない、つまらない話だ。
ふと、ごくたまにその幽霊のことを思い出す。あれは何だったのだろう、と一瞬考える。その一瞬のうちに意識から消えて、なかったことになる。その程度のことだ。
夢の中で出会うふしぎな事象も、基本的にはそんなかんじだ。
なんだろう、ふしぎだなあ、と一瞬だけ思う。その次の瞬間には、もう適応している。
彼に出会ったときも、わたしはふしぎな人だなあ、いや、そもそも人なのかなあ、と考えた。話しかけてみて、会話が通じないことに気づいても、まあそれで普通かなあ、と思った。
彼は幽霊みたいなものだ。近づいて話しかけても、きっとふしぎなことには変わりがないし、怖いとも思わない。ただ、そのふしぎさに惹かれる。どうしようもなく魅了される。
幽霊と違うところは、触れてみたい、理解したい、と感じたことくらいだろう。
わたしは先生のことをもっと知りたい。
「先生は、どうしてピアノを弾いているの?」
わたしはそう尋ねるが、先生は人間の声ではない声で応じるだけで、会話は成り立たない。
「ピアノ弾くの、たのしい?」
また、先生は声にならない声で答えた。
「わたし、先生のこと、もっと知りたい」
わたしの言葉は、全部ひとりごとだ。先生の言葉も、たぶんひとりごとなのだろう。わたしと先生の共通点は、ひとりごとばかり言っていること。そんなどうでもいい共通項でも、何もないよりはいいと思う。
「ねえ、せんせい」
とわたしが言ったとき、先生は何かを思い出したように顔をあげて、ピアノを弾く手を止めた。
「え、なに?」
先生はその手でわたしの手をとった。
「え、え、なに?」
わたしが戸惑いながらきょろきょろしていると、先生はわたしの手を鍵盤の上に、そっと載せた。ぽろん、ときれいな音が鳴る。
「……きれいな音」
まるで、ゆめのくにに来たみたいに、澄んだ音色だった。
「弾いてもいいの?」
先生がうなずいたような気がした。わたしは指を動かして、音色を奏でていく。ピアノの弾き方なんて知らないから、音はめちゃくちゃ。
「あ、もしかして」
わたしが話しかけると、先生はこちらを見た。音と同じで、澄んだ目の色。
「ピアノを弾く理由を、わたしに伝えるために?」
また、先生がうなずいたような気がする。気がするだけで、もしかすると全然違うのかもしれないけれど、でも、それでいいと思う。
「……先生、ありがとう。とっても、うれしい」
会話は通じなくても、幽霊と友達になることはできるはずだ。
先生と友達になることも、きっとできる。
わたしは、いつまででもここで、ピアノを弾いていたい。先生と一緒にいたい。
窓の外は宇宙。どこまでもまっくらな、先生の目の色に似た宇宙。
宇宙には澄んだ青空はないけれど、宇宙船はピアノの音と一緒に、宇宙を漂っている。ぷかぷか、ぷかぷかと、まるで海の中を行く潜水艦みたいに。わたしも、宇宙船の乗組員として認めてもらえるだろうか。認めてもらうために、わたしは先生のそばで、いろんなことを考える。考えて、実行する。
ただそれだけのために、わたしは、ここにいる。
090925