いつも走ってた
ウエスターははちまきを巻いて、部屋の隅で何やらごそごそやっている。先ほど八つ当たりで壊した壁を直しているらしい。
「どうして俺が壁なんか直さなきゃならない」
と最初は少し納得いかなさそうにしていたが、
「君が壊したんだろう。君が直さなくて、誰が直すんだ」
サウラーがそう言ってやると、素直に修繕を開始した。
この素直さはウエスターの最大の……というか唯一の長所であるとサウラーは思っている。
そもそも、彼は不幸集めには不向きである。自覚はないようだが、そのひた向きさ、コツコツと目標に向けて努力する姿勢、誠実さ、まっすぐな眼差し……どれも、人を不幸にするための能力ではない。たぶん、彼の成績が圧倒的に悪いのは、人を不幸にする才能に欠けすぎているからだとサウラーは分析している。もちろん、頭が致命的に悪い、というのも一因なのだが。
「壁は直りそうかい」
なんとなく、サウラーはその大きな背中に向かって声をかけてみた。ウエスターは振り向かずに返答する。
「直してみせるさ。大丈夫、こういう作業には慣れている」
ウエスターは常にクローバータウンストリートで妙なボランティア活動(本人は情報収集のつもりらしい)をしており、その中には土木作業のようなものも含まれている。その経験が思わぬところに役立ったわけだ。サウラーは感心するが、屋敷の壁を直しても不幸は集まらないだろう。つくづく、この男の努力は全体的に無駄だな、と考えてしまう。努力の量でいえば、きっとウエスターの方がサウラーやイースよりも圧倒的に多いはずだ。なのに、成果はまったくなし。やはり、『向いていない』のだな、と思う。
「ウエスター」
「なんだ」
もう一度声をかけてはみたものの、特に言うべきセリフは見つからなかった。サウラーが黙っているので、ウエスターが作業を中断して、こちらを見た。何も知らない、透き通った目。それを見ていると、意味のない罪悪感を覚えてしまう。何か言わなくては、と思い、サウラーはこう問いかけた。
「今、不幸かい?」
「いや、別に」
ウエスターは平然と即答する。なぜそんなことを聞くのか、と不思議に思っているような表情だ。そこが彼と自分の決定的に違うところだろう。壁の修理なんて、少なくともサウラーは絶対にしたくない。無理矢理やらされたら、絶対に不幸だ。
同じ環境に生まれ、同じように管理され、同じ目標に向けて歩んできたのに、自分と彼の見ている景色はまったく別のものであるように思う。なぜだろう、という気持ちは常に浮かんでいるけれど、明確な答えは本を何冊読んでも見つからない。
たとえば。いつも全力で走っていれば、周囲なんて見えない。自分がどこを走っているのか、自分が幸せであるかどうかすら、見えない。その間、彼はただ、走ることしか考えていない。いったい、どこまで走るつもりなのだろう。走ることが彼にとっての目的ならば、行先はないのかもしれない。走ることの意味を失うまで、走り続けるに違いない。
逆に、同じ場所にとどまっていれば、必然的に同じ景色ばかりを眺めていることになる。何度見ても変わらない風景。何の変化も見せない世界。見飽きてしまっても、踏み出すことができなければ、彼はその風景に甘んじているしかない。
自分は、いつだって同じ場所に立っているけれど――ウエスターは、いつも走っている。
たぶん、彼の存在を『おもしろい』と感じてしまうのはそのせいなのだろう。
これは、いずれ不幸集めの役に立つ情報かもしれない。
サウラーはひそかにそれを脳にインプットして、本の世界に戻ることにした。ウエスターは、まだ壁の方を向いている。壁はもうほとんど元通りになっている。きっと、次に顔を上げた時には修理が完了しているころだろう。そのときには、先ほどサウラーがひとつだけ彼のために残しておいたドーナツを目にして、きらきらと輝く笑顔になるウエスターを見れるはずだ。それまで、もう少しだけ本のページをめくっておこうとサウラーは思った。