或るいはかの者の夢をみる
ウエスターは帰宅するとすぐ寝入ってしまうことが多い。必要以上に体を動かしすぎてしまっているのだろう。彼はわりと、作業にはいつでも全力で、ほどよく手を抜くと言うことができない体質だ。
基本的に彼は早寝早起き、サウラーは読書の進行具合にもよるが、ウエスターと比べると遅寝遅起き。あまり同時に目覚めることはなく、二人の生活リズムは多少ずれていると言える。
今朝、サウラーが目覚めると、それを待っていたかのようにウエスターが寄ってきた。
「夢を見たんだ」
そう彼は言い、サウラーの言葉を待つことなく、夢の内容を語り始める。ウエスターは物事を整理して順序良く話すことが、不得手である。この話も、かなり順序が入り乱れていてわかりにくかったのだが、彼が見た夢を、整理してわかりやすくすると、こうだ。
真っ白な世界。
何一つない世界。
足元の雪は降り積もった雪で、よく見ると足跡が一筋、ついている。
空の白さはどういう理由でできたものなのか、それは謎だ。しかし、夢の中の事象に意味を求めても、仕方ないだろう。不本意だが、謎は謎のまま、放っておくにこしたことはない。
夢の中のウエスターは、足跡を追いかけることにした。この世界には、それしか道標がない。たぶん、その足跡を追わずにやみくもに歩きだしても、迷ってしまうだろう。ウエスターがそこまで理性的に考えて行動したか否かはさておき、サウラーは、その状況なら自分も同じことをしたはずだと思う。
足跡を追いかけている間は、少し楽しかったという。雪の中をひたすら突き進み、足跡を追い、きっとその先には足跡のあるじがいて、真っ白で誰もいない空虚な世界は、その足跡のあるじが終わらせてくれるはずだった。どうしようもなく何もない世界を、打破してくれるのがこの足跡の先にある世界なのだ――胸を高鳴らせつつ、冒険者のような気分でウエスターは追跡を続けていった。
しかし――その先にあった光景は、彼の期待を真っ向から裏切っていた。
足跡の先には、何もなかった。足跡のかかとの部分は女性のハイヒールのようにとがった形状をしていて、ある特定の人物を連想させる。不自然に途切れたままの足跡を見下ろして、雪の存在を初めて思い出したかのように、身体がさっと冷えた。そこで目が覚めた。
サウラーには、夢が暗示する、ウエスターの精神構造について、なんとなく理解できる気がした。が、それをウエスターに伝えても意味はないので、当たり障りのない感想を言うだけにとどめた。ウエスターは、話し終えたらすっきりした、と言って、いつもどおり筋トレを始めた。深刻な悩み、というわけではなかったらしい。後味の悪い夢を、口に出すことで処理しただけだ。たぶん、口に出した瞬間に、その夢は彼の中でどうでもいいことになったのだろう、それ以来、彼はその話をすることはなかった。
サウラー自身も、寝起きだったこともあり、そこまでまじめにこの話を聞いていたわけではない。どちらかといえばつまらない話だと思っていたのだけれど、一応、記憶のどこかにこの夢の内容はインプットされていたらしい。
今、サウラーは真っ白な世界に立っている。空と地面の境界がどこにあるのかわからないほどに、白しかない世界。ひんやりと皮膚を刺す空気は明らかに冬のものだ。
瞬時に、この世界はウエスターの夢の世界だ、と気づく。否、まったく同じ世界、ではもちろんない。ウエスターの夢の話を聞いた結果として、サウラーの脳がイメージした世界。それが、たまたま夢に具現化した、というだけのことだ。
静寂は耳を貫き――という表現の矛盾については今は考えない――この世界は完全に無音で、音を発することが禁じられているかのようだ、そんなことを考えつつ、サウラーはある事実に気付いた。
ウエスターの見た世界と、自分が今見ている世界の決定的差異。
足跡が、ない。
周囲を見回してみるが、それらしきものは見つからない。
それが、彼と自分の違い、ということか。ウエスターが必死に追いかけたものが、サウラーの世界には存在しない。存在しないものは追いかけられない。サウラーは、その場に立っているしかない。進むべき方向を示されなければ、人間は進むことができない。
音のない世界で、サウラーは一人、世界が終るのをぼんやり待つ。
足は動かないが、思考は止まることなく働き続けていて、それが少しわずらわしい。
たとえば、この世界には自分以外、誰も存在しないのだろうか、ということについて。
ウエスターの見た夢では、足跡が他者の存在を示す道標だった。
それがないということは、この世界には自分しか存在しないのだろうか?
ウエスターもイースも、プリキュアも、不幸にすべき人々も、総統メビウスすらも――存在しない。
だとすると、ここには管理も存在しないのだろうか。
管理されていない自分は、ただ立っているしかない人間なのか?
この思考は嫌だな、と思う。思考を切り替えたい、と否応もなく願ってしまう。そのとき、後方に「何か」が近づいている気配を感じた。さくさく、しゃくしゃく、と軽やかに雪が崩される気配。それは「音」ではないけれど、なぜかはっきりと誰かの足音に感じられた。
多少の緊張を感じつつ、サウラーはゆっくりと振り向いた。
「 」
誰かが近づいてきていた。まだ距離は遠く、人影ははっきりとは見えないが、サウラーに対して何か語りかけていた。言葉は確かにそこにあるのだが、どういうわけか捉えられない。放たれた言葉は中空に浮いている。サウラーのところにまで届かないままで、ふわふわと浮かんでいる。
しゃくしゃく、という特徴的な足音の気配だけがしばらく、サウラーの五感を支配していた。が、やがてその人物の特徴が視認できてくる。金髪、がっしりとした肩、サウラーよりも高い背丈の男。隣には、紺色の髪をした女性。雪の上では歩きにくそうなヒールの靴を履いている。二人とも、とても見覚えのある人物だ。敵ではない、という事実が、安心を呼んだ。
「 」
二人が語りかけてくるが、その言葉はやはり、サウラーのところまで届かない。境界のない空と地面の間で、ぷかぷか浮かぶ言葉たち。言葉には色が付いていて、言葉同士が入り混じり、空中は混沌としている。カラフルで、まるで虹でも見ているような気分だ。彼が何か言うたびに、色の種類が増えていく。漂う言葉が増えていく。
何もない白の世界は変革されて色を少しずつ変える。音のない世界に、色のついたきれいな音が浮かべられていく。水ににじむ絵の具みたいに、にじんだ言葉が中空に浮いている。サウラーに語りかけている彼らの顔は見えないけれど、きっと笑顔だ。少なくとも不幸さは感じられない。この白の世界からサウラーが抜け出すための鍵は、その色のついた言葉なんじゃないだろうか。
この世界に足跡がなかったのは、他に誰もいないからじゃない。
他人の足跡が、降った雪で消されてしまうまで、サウラーがそこに立っていたからだ。
ずっとずっと、長い間――行き場をなくしてたたずんでいたから。
そう気づいて、言葉をつかまえようと宙に手を伸ばした、その瞬間に意識がワープした。唐突な、夢の終わり。白の世界は、そうして終わった。
「おはよう、サウラー」
目が覚めた。ウエスターが自分を覗き込んでいる気配がする。光が目に入ってきて、まぶしい。
そのとき、彼の言葉がようやく届いて、サウラーはその言葉を捕まえることができた。宙空を漂っていた言葉が、自分のものになった。
「……おはよ」
サウラーは、無意識に少し笑った。自分も、バカみたいな夢を見ることはあるのだな、と思った。
091009