喪失過程のプロセス

「死ぬのか?」と問いかける彼の声で正気に戻った。ああ、と頷いた自分はかすれた声をしている。彼は不安そうに中空を漂っていて、おそらく自分も同じような顔をしているのだろうと思った。
「死ぬのは怖いよな」と、昔ウエスターに言われたことがある。そのとき、自分はこう答えた。怖くない。死ぬと言うのは寿命をまっとうすること。死んだ後にはもう、メビウス様による心地よい管理の檻がなくなる。それでは、生きていたって意味がない。だから、死ぬことは怖くない。
 しかし、そんな理由をいくらがんばって構築していても、思考の中枢が壊れたら意味がないのだ。メビウス、ラビリンス、管理、そのすべてが無意味なものになってしまった今では、もうすでにこの思考は成り立たない。
 今のサウラーは、死ぬのが怖くないとは思わない。思えない。ただ震えている。
 デリートホールの中は寒い。皮膚を突き刺して切り裂くような痛みが常に襲いかかってくる。サウラーには、それが自分をこれから殺す、自分たちを消し去る者の正体である気がした。その暴力的な寒さは炎に似ている。薄青い炎の群れが、自分たちの体を包み込み、いずれ壊死へと向かわせるのだろう。崩れ落ちたあとには何も残らない。文字通りデリートされる。ずるり、と無情な音を立てて、ゴミが崩れて消えていく音が聞こえている。

「なあサウラー、俺のプリン食べただろ」
ゴミが廃棄される音を聞きながら、ウエスターはまじめな顔で妙なことを言った。少し考えて、サウラーは頷く。
「人数分買って、名前も書いといたのに、あの日、俺が帰ってきたら一個もなかったんだ」
「イースも食べてたからなあ」
三人で過ごした時間が、遠い日の夢のように感じられ、サウラーは嘆息する。ため息が白く濁って空間に沈澱していくのを眺めつつ、サウラーはもう一度息をついた。
「なあサウラー、俺、プリンが食べたい」
ウエスターが中空で胡坐をかく。どこか深刻な声で彼は訴えた。
「ドーナツも食べたいし、遊園地にも行きたい。サータアンダギーだって食べ足りん」
サウラーは、今日に限ってはウエスターの方が自分より正しいと思った。正しく真っ直ぐと書いて、正直と読むのだ。そんな連想をしながら深くサウラーは頷いた。頷く瞬間、少し涙がこぼれそうになった。
「うん。ぼくもまだ、読みたい本がたくさんある」
「戻りたいな」
どこに、どの時点に戻りたいのかは分からなかった。ただ、回帰したいと願うその気持ちだけが強く在る。
「ああ、戻りたい」
また、音を立てて世界の断片が崩れ落ちた。自分たちもいずれ消え去るのだろう。それまで、この戻りたいという気持ちを忘れずにいられればいい――そうサウラーは願ったが、その気持ちさえも青い炎に、突き刺さるような攻撃的な冷たさに、溶かされてしまうのではないだろうか。ただ、それだけが今、不安だった。



 そのうち、じゃあな、と誰かが言った。
 また会えたらいいね、と言ったのは誰だか分らなかった。
 また、会えたら。そのときはドーナツを買ってやろう、と薄くなった彼の意識がぼんやり考えた。
 廃墟が崩れ落ちる音は、だんだん遠ざかる。
 代わりに他のものが近づいてくる気配を感じ、彼は沈んでいった。



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