すべてを失った。
 あるじはもういない。会社もない。居場所も、ない。
 仲間……そんなものは最初からいない。
 でも、生きている。どうして自分が生きているのだかわからない。
 どれだけ長く生きていたって、この世界には絶望しか存在しないのに。
 あるじのいない世界にも、あるじのために生きられない世界にも、意味なんてないのに――
 そんなことを考えながら街をふらふらとさまよっていると、見た事のある金色の髪が視界に入った。会社では整髪料でしっかりと髪を固めていた彼だが、今はオフらしく髪を下ろしている。髪型だけ見れば別人のようだ。
 しかしそれは忘れるはずもない、かつての部下だった。

「ブンビー、さん……?」

思わず声を出してしまった。あからさまな失敗だった。彼はわたしを嫌っているに違いない。わたしは彼の存在を無視したし、ビルから突き落したし、何よりも彼の部下を殺した。この男がそれを恨んでいないはずがないのだ。
 気づかれないうちに逃げよう、そしてもう彼の前には絶対に現れないようにしよう――と誓いながらあわてて踵を返そうとしたわたしの存在に、彼が気づいた。

「カワリーノさんじゃないですか」
 彼の表情は一瞬曇ったが、すぐにほっとしたような顔になった。
 信じられないことだが、彼はわたしを見て、安心したように笑った。
「お久しぶりです、生きて、いらしたんですねぇ」
生きて、という単語に特別強いいたわりの響きを込めて言ったあと、いつものへらりとした顔になった。彼はまったく変わっていなかった。びっくりするくらいに、当時のままだった。わたしは、蜘蛛の巣にとらわれた昆虫のように身を凍らせるしかなかった。



ナイトメリッシュ・ナイトメア



「どうされたんですか」
夜の街の雑踏の中で、彼はそう尋ねた。
「あ、カワリーノさんもお散歩ですかぁ。いいですよね、夜の散歩」
こちらが黙っていると、一人でそんなことを言い出した。
「いやぁ、やっぱり会社から帰ってきて、ずっと家にこもっていると体に良くないですから。たまにはこうして、コンビニとかに行ったりしないと」
雑誌読んで帰るだけなんですけどねー、だってお金無いから。と茶化すように言って、ははは、と軽快に笑う。わたしが呆然と黙っているせいだろう、彼は「カワリーノさん?」と言いながら首をかしげてみせた。
「どうかされたんですか、どこかお悪いんですか」
「…………」
わたしは目を伏せた。何をどう言えばいいのかわからない。いっそ、この場から逃げ出したいとすら思う。
 どうして彼は笑うのだろう。どうしてわたしを責めないのだろう。言いたいことは、たくさんあったはずなのに。まさか忘れているわけでもないだろう。ナイトメアというあの会社で彼とわたしに起こったことと、わたしが彼にした仕打ちを。

「わたしを」
声を出すのはひどく久しぶりのことであるような気がした。ちゃんと発声できているか心配しながら、こう言った。

「わたしを、恨んでいないのですか」

 彼の表情が静止した。笑顔が消える。明るい色をした瞳に暗い光が宿るのが見えた。
 ああ、やっぱり彼はわたしを恨んで――
「続きは、あっちの道で話しませんか。ここは人が多いですから。カワリーノさん、人込みはお嫌いでしょう?」
彼はそう言って人気のない脇道を指差した。確かに私は人の多い場所は嫌いだった。しかし彼にそんなことを言った覚えはない。どうして知っているのだろう。疑問に思いながら、わたしは彼の後について行った。

「恨んでいないといえばウソになっちゃいますかね。言ってやりたいこともたくさんありましたよ」
と彼は最初に言った。穏やかな声だった。もう仕事場の仲間ではないせいか、以前よりもフランクな調子だ。しかし、冗談ばかり言っていた彼が、今はひどく真摯な顔をしている。これからどんな言葉を彼が言うのか、それを考えると少し怖かった。
「でも、こうして再会してみたら、あなたに言いたい言葉はたった一つになりました」
彼らしからぬ真面目な口調。
わたしはその言葉の意味を反芻しながら、震える声で尋ねた。
「その、『たった一つ』の言葉を――今聞いても、いいですか?」
きっと恨みごとだろうと思った。死んでほしい、部下を返せ、職場を返せ……いろんな言葉を予想したが、次の瞬間に彼が答えた言葉はそのどれとも違っていた。

「――生きていてくれて、ありがとうございます。本当に、カワリーノさんが生きていてよかったです」

「……え?」
彼が何と言ったのか、一瞬理解できなかった。
わたしはとても呆けた顔をしていたのだろう、彼がおかしそうに笑った。
「カワリーノさんがそんな顔するの、初めて見ましたよぉ」
「わたしが、生きていてよかった、ですって?」
自分でも間抜けな声だと思った。きっと顔の表情もさぞ間の抜けたものになっていただろう。彼はそれには言及せず、口の端を緩めて言った。
「ええ、ほんと、生きててよかった」
嘘をつかないでください、と言おうと思ったが、やめた。この男は嘘なんてつかない。いや、嘘なんてつけないのだ。その不器用さをわたしはよく知っているじゃないか。
「いやあ、ナイトメアがなくなってから、わたしもカワリーノさんも立場は一緒だったんだろうなーって、ずっと思ってたんですよ」
「……一緒?」
「みんな、戦いたくて戦ってたわけじゃなかった。わたしら下っ端は、生きるために仕方なく戦ってただけです。あれが仕事だったし、働かないとカワリーノさんに黒い紙渡されちゃいますから。まあ、ギリンマくんやアラクネアくんが死んでからは、『俺が仇討ちしてやらなきゃ』みたいに思うこともありましたけどね。はは」
その少し乾いた笑いは、もうすべて過去のことだ、と暗に言っているような気がした。死者のためではなく、今生きているわたしを励ますために。
「……わたしはただ、生きたかっただけ。生き延びたかっただけだ。カワリーノさんも、戦いを望んでいたわけじゃなかったんでしょ? ね?」
「わたしは……」
戦いを望んでいたかどうか。
 無邪気な笑顔でそう問われて初めて、考えた。
 自分はあの頃、何を望んでいたのかということを。

「わたしは、デスパライア様に、あの方が一番欲しがっている物をさしあげたかった」

正直な気持ちを吐露してから、自分でも驚いた。絶望を望んでいた、と答えることだってできたはずだ。いや、わたしは戦いを望んでいたのだ、と彼の言葉を否定することもできた。しかし、わたしはそうしなかった。

 わたしはデスパライア様の喜ぶ顔が見たかったのかもしれない。あの方が少しでも、わたしのために笑ってくだされば、それだけで満足したのかもしれない。世界を絶望で満たしたいなんて――彼女を振り向かせるための口実で。わたし自身は彼女のいる世界に、一緒に存在していたかっただけだ。些細で馬鹿らしい願いだった。そのために他人を踏みつけにして、犠牲にして、殺してきたというのに。

「……カワリーノさんの正直な気持ち。初めて聞いた気がします」

彼がふわりと笑った。彼はわたしを馬鹿にしなかった。わたしの願いを、踏みつけにすることなく、肯定した。
 それがなんとなく気恥ずかしくて、そして、とてもうれしかった。

「あの、ブンビーさん」
「なんですか?」
彼の瞳はいつのまにか元通りの明るい光を宿していた。先ほどの暗い影は何だったのだろう。あれは気のせいではないだろうが、もしかしたら、わたしが考えているほどは、この男はわたしを嫌ってはいないのかもしれない。そう考えてもいいのだろうか。
 へらへら笑っているお人よしの男に何か言ってやろうと思ったけれど……口に出す前に言葉はかき消えてしまった。
「…………えっと、なんでもないです」
うつむいてそれだけ言ったわたしに、彼はさっと右手を差し出した。わたしのものより少しだけ大きな手。
「……その手は何ですか」
できるだけ冷たい声音で言おうとしたが、失敗したような気がした。
「カワリーノさん、もしかして今、居場所ないんじゃないですか」
心を読んだように、彼はそう言い当てた。わたしの無言を肯定の返事だと受け取ったのだろう、彼はその手でわたしの右手を取って、包むように握った。温かい手だ。
「わたしの家でよければ、泊まっていきますか。狭いですけど、たぶん、カワリーノさんが寝るスペースくらいはありますよ」
わたしが何も答えずに彼を見上げて黙っていると、
「じゃあとりあえずうちに帰りましょう。もう暗いですからね。カワリーノさんも一緒に、狭い我が家に帰ろう!けってーい!……なんてね。ははははっ」
強引にわたしの手を引いて、彼が走り出した。足を止めたままだと転びそうだったので、一緒になって走った。走る、なんて行為は久々で、とても懐かしかった。
 子どものような男だけれど、その実、彼はとても大人なのだ。割り切るということを知っている。それに比べたら、わたしは小さな子どものようなものだった。

「あの、ブンビーさ……」
数分後、彼に声をかけようと、わたしが顔をあげると、彼はいつのまにか視界から消えていた。見ると、道の端に座り込んで、何かしている。
 近づいてみると、道端には段ボール箱が置かれていて、その中に捨てられた犬に、彼が必死に話しかけていた。
 やがて彼は、捨て犬に餌をやりはじめた。おそらく自分用の食料なのだろう、手に持った買い物袋からいろんな食べ物を出している。
 飼えなくてごめんよー、うちマンションなんだよねぇ、などとつぶやいている彼を見ていて、ふと、自分もこの人にとっては捨てられた犬なのかもしれないな、と思う。
 捨てられて、身内もなく、居場所もなく、ただ朽ち果てていくだけの存在。
 でも、ひとつだけ、あの犬と自分の違うところを見つけた。
 彼はわたしの手を引いてくれた。ごめんとは言わなかった。見捨てなかった。
 それが今のわたしにとっては、とてつもなくうれしいことに思えた。


「…………ありがとう、ございます」
ぽつりとつぶやいた言葉は、偽りのない本当の言葉だったのだが、犬に話しかけるのに夢中になっている男には聞こえていないようだった。
「……しょうがない人ですね」
あきれたようにそうつぶやいてみると、少し楽しくなってきた。
 まだ見ぬ彼の家が、居心地の良い空間であればいいな、と心から思った。


081017


時系列的にはブンビーさん再就職直後くらいを想定して書いてました
なんかカワリーノさんがやたらと乙女属性になってしまった気がする
このあとはきっと幸せな同棲ライフが待っているはず!

カワリーノさんが戻ってくる日をずっとずっと待ってます。
きっとブンビーさんも待っているよ!そうに違いないよ!と信じています