偽善と祈り


 すべてが壊れてしまい、居場所がなくなる――そんな体験を一度でもしてしまったら、もう後戻りのできない人間になってしまうと知っていた。だからこそ、必要以上に他人とコンタクトをとることは避けていた。誰とも親密になってはいけない。常に、距離を置いて人と接しなければならない。それは、「もう後戻りのできない人間」である彼の中にある、暗黙のルールだ。
 それなのに、あの男は。
 なぜかしつこく彼につきまとってくる。何度追い払っても、また目の前に現れては無駄口をたたいて去っていく。
「ちくしょう、あの人はなんでこんなにしつこいんだよ」
つぶやいてみるが、誰も答えない。イースター社の広い廊下に、彼の声が反響する。
「とりあえず逃げないと……見つかったら、めんどくせえ」
人気のない方へ向かおうとした幾斗の前に、一番面倒くさい相手が平然と立っていた。いつからそんなところにいたのか。なぜ幾斗の前に現れるのか。なぜ話しかけてくるのか。聞きたいことはたくさんあるが、幾斗はあえて何も言わなかった。
「やあ、幾斗君」
二階堂は例の気持ち悪い笑いを顔に貼りつけていた。偽善的でありながら偽悪的でもある。要するに常に偽物なのだ、この男は。まったく信用できない。幾斗は心からそう思う。
「失せろ……ていうか消えろ。あんたと話すことなんてない」
そっけなくそう言ってみたが、「失せろと消えろは一緒じゃないかな」とどうでもいいところに食いついてくる。人を怒らせる言動と態度、というものに関しては、二階堂の右に出る者はいないだろう。話をはぐらかし、論点をずらし、どうでもいい挑発を付けくわえ、挙句の果てには話を勝手に終了させる。これでは人に好かれることなんてないだろう。
「あんたの態度は気持ちが悪い」
「それは褒め言葉かな?」
「どう聞いたらそう聞こえるのかご教授願いたいね」
幾斗は攻撃的な態度を崩さないし、目の前にいる二階堂も、皮肉げな笑みを絶やさない。平行線だ。どこまでいっても、話が停滞したまま、終わらない。
「……俺はあんたが嫌いだ」
幾斗は話を終わらせたくて、そう言った。
 だが二階堂は「あっそう」と適当に受け流した。幾斗は無意識のうちに舌打ちする。
「ぼくも、別に君のことが好きなわけじゃないよ」
「当たり前だ」
仮に好きだなんて言われたとしても、嬉しくも何ともない。むしろ気味が悪い。何か裏があるに違いない、と思ってしまうことだろう。
「鬱陶しい、早く帰れ……っていう顔だね」
にんまり笑いながら二階堂は言う。そこまでわかっているなら、早くどこかへ行けばいいのに。そんな幾斗の思考が透けて見えたのか、二階堂は大仰に肩をすくめた。
「わかってるよ。ただ、君を見てると思いだすんだ。余計なことを、いろいろと」
ならば見なければいい。二度と目の前に現れなければいい。
「はは、きついことを言うね。いや、そういうことじゃないんだ。たとえば、そうだね」
二階堂は遠い目をして、つぶやくようにこう続ける。
「ぼくは失敗してしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。とても後悔してる。それと同じことを、目の前で違う誰かが繰り返そうとしていたら、普通、止めるだろう?」
つまりはそういうことだ、と彼は結んだ。
 その態度に――幾斗はなんだかむしょうにイライラした。
「取り返しのつかないことを、俺がこれからしようとしてるって言うのか」
「そうだ。それを止めるためなら、どんな卑怯な大人になったってかまわな……」
「ふっざけんな」
二階堂のしようとしている親切は、何の意味もない、的外れで、必要のないものだ。不快な同情でしかない。だって、幾斗はもう――取り返しのつかない場所にいる。それは、これから何をどうしたって、もうどうにもならないものだ。すでに過ちを犯してしまったあとなのに、それを「どうにか」しようとするおせっかいな行為。馬鹿らしくて、腹立たしい。気分が、悪い。
「あんたは最悪だ。俺のことなんて放っておけばいい。もう全部手遅れなのに、今更いい人ぶってんじゃねえ。もう何もかも遅いんだ。イースターも、俺も、全部全部」
幾斗は洗いざらい、すべての本心をぶちまけてしまおうと思った。しかし、目の前の二階堂が幾斗の剣幕に目を見開いているのを見て、少し、魔がさした。
「そうだ、あんたも手遅れになっちまえばいい。そうすれば、少しは俺の気持ちがわかるだろ?」
「え……」
幾斗は鼠を見つけた猫のようにすばやく、二階堂の腕を乱暴に握って、無理やりに引っ張った。そのまま、転がり込むように一番近い扉へと、彼を強引に押しこんだ。そのまま、自分も部屋の中へ踏み込む。
「…………っ!!」
バタン、と幾斗の背後で扉が閉じる。部屋の中は暗かった。使われていない空き部屋のようだ。おあつらえ向きじゃないか、と幾斗は思う。仰向きな体勢から身を起こそうとする二階堂の上半身をねじ伏せつつ、男にしては細い腕だ、などと考える。
「な、にを」
目の前に倒れた男はひどく怯えていて、抵抗する意思すら見せない。心のどこかがチクリと痛むような気もする。でも、今の幾斗を突き動かしているのは無知な大人と、大人たちの行為への純粋な怒りだ。それはそう簡単に消え失せるものではない。
 大きな音を立てて、二階堂の顔のすぐ横に思い切りこぶしを叩きつける。びく、と体を縮ませる挙動がおかしく思えて、幾斗はくすりと笑った。
「何を、だって?」
口を裂くように。すべてを呪うように。彼は笑いながら、言った。
「こうするんだ」
低い声で宣告しつつ、幾斗は顔を近づけてキスをした。口づけというより、唇に噛みついているようなキス。幾斗は目を開けたままだったが、二階堂は怖気づくように目を閉じていた。唇をふさいだまま、引っ掻くように首筋に右手の爪を立てると、二階堂の体が震えているのがわかった。そろそろやめておいた方がいいんじゃないか、と少し思う。しかし、もっと踏み込まなければ――この男は理解しないかもしれない。もう二度と幾斗に関わろうなんて思わないように、思い切り傷つけてしまった方がいい。幾斗はそう決めつけて、まず二階堂の両腕をまとめて、片手で押さえこんだ。
「嫌だ」
小声でそう言った二階堂は少し抵抗するそぶりを見せたが、幾斗は無視した。非力な彼を抑え込むのは、予想していたよりとても簡単だった。
「徹底的に、手遅れになればいいんだ」
幾斗が身勝手な大人に居場所も家族も絆も誇りも、すべて蹂躙されてしまったのと同じように。この男も、蹂躙されてしまえばいい。そうしなければ、自分の愚かさも、罪も、理解できないというならば。体でわからせてやるだけだ。
 ちくちくと胸が痛む。この痛みを捨ててしまいたい、とそのとき幾斗は感じた。


 世界は理不尽でしかなく、誰も彼も信じられない。人を傷つければ自分も傷つくことになる、という理屈は分かっていたけれど、意識的に誰かをめちゃくちゃにするのは初めてだった。きっと、彼を傷つけながら、自分も同じくらい傷ついてしまった。人を遠ざけるために、人を傷つける。そんな悪循環のループに、自分も溺れていく。深く暗い海に、重く体が沈んでいくビジョンが見える。うめき声とその中に混じった少しの喘ぎ声。悲鳴のようにくぐもった声を聞きながら、幾斗はぼんやりと、しかしくっきりと自分の罪を意識した。
 服を着て部屋を出るとき、彼は一度だけ振り返った。だが部屋に倒れた二階堂はもう意識を手放していて、幾斗の表情を見ることはなかった。
 自分は後悔しているのだろうか、と考えたが、よくわからなかった。
 しかしこれで、もう二度と彼は幾斗に近づこうとすることもないだろう。余計な親切で幾斗の心に踏み込んでくることも、きっとないに違いない。もう会話することもない。それはそれで少し寂しいのかもしれない、と柄にもなく思った。


「やあ、幾斗君」
しかしながら、数日後。会社の廊下ですれ違った彼は、何事もなかったかのようにまた幾斗の前に立ちふさがった。幾斗は呆気にとられて、何も言えなくなってしまった。ぽかんとした幾斗の顔がおかしかったのか、二階堂はくすくすと笑った。幾斗は思わず抗議する。
「なんで話しかけるんだよ。俺があんたに何をしたか、忘れたのか」
「忘れてないよ。でも、君のことが怖いのと、君のことが放っておけないのはまた別の話だろう?」
そう言ってにっこり笑う二階堂の手が震えているのを、幾斗は見逃さなかった。結局、幾斗は彼を傷つけて、自分も傷ついて、さらに追い込まれてしまっただけ。これは犯した罪に見合う罰なのか、それとも、報いなのか。しかし、そんな風に笑う彼の笑顔を否定する言葉を、どうしても思いつくことができなかった。
「……勝手にしろ」
幾斗はつぶやきながら、彼から目をそらして廊下を歩きだす。
 二階堂がイースター社から姿を消すよりも、少しだけ前の出来事だった。

090609

ずっと書こう書こうと思ってた話のはずなんだけど、何かが違うような気もする
シリアスで雰囲気だけエロ!っていうのやりたかったんだけどなー 難しい
幾斗くん幾斗くん!ってやたらすりよってくる二階堂に半ばうんざりしつつも相手してあげる幾斗に萌えます
イースター時代の二人はなんだかんだ言いつつ仲良かったらいいなー