雨の日、不運の日


 今日は、朝からとことんついていない。トーストは焦げるし、梅雨の湿気のせいで髪型はまとまらないし、挙句の果てには配布しなければならないプリントを自宅に置いてきてしまう始末だ。朝にテレビをつける習慣はないけれど、もし今朝、テレビの電源を入れて占いを見ていたとしたら、間違いなく「本日の運勢、最下位はおとめ座のあなた!」とでも言われていたことだろう。ちなみに、ゆかりと同棲していた頃はよく二人で朝のニュースの合間に挟まれる占いを見て笑い合っていた。いい結果が出たときには「当たるといいね」と言い、悪い結果が出たときには「占いなんて当たらないって」と励ましてくれていた彼女が、そんな優しい言葉をかけてくれなくなったのは、いつ頃のことだっただろう。二人の関係が軋んで壊れてしまったきっかけを、ぼくはよく考えてみる。答えが出ることはない。きっときっかけなんてなかったのだ。明確な契機などなく、ゆっくりと壊れていくものはたくさんある。ぼくと彼女の関係も、そういった類のものだったのだろう。
 ぼくはため息をつきながら靴を履いて、学校の玄関から雨空を見上げた。雨はまだ止む兆しを見せない。朝から続いた不運がまだ続いているのなら、おそらくぼくの鞄の中に折り畳み傘は存在しない。濡れながら走って帰らなければならなかっただろう。
 しかし、ぼくはそこまで愚かではない。鞄の中にはちゃんと、紺色の傘がおさまっている。ぼくに不運を降らせつづける神様には、ざまあみろと言いたいところだ。ふふんと得意げに鼻歌を歌いながら、それを取り出して開いた。かしゃん、と軽快な音をたてて傘が開く。が、それは開いたときと同じくらいの勢いで、すぐに閉じてしまった。
「え……」
嫌な予感がする。
 もう一度、傘を開いた。が、金具は止まらず、傘は元の形に戻る。どうやら、傘を開いた形に固定するための金具が壊れているらしい。四回目に傘が閉じたときに、ようやくそう気づいた。
 勢いよく降る雨の音が聞こえる。なんだか、先ほどよりも雨量が増している気がする。とうに生徒の下校時刻はすぎており、夕闇は辺りを覆いつつある。周囲には誰もいない。
 最悪の状況だった。
「あーもう……」
ここで呆けていたって仕方ない。そう心中で呟いて、自分の鞄を頭の上にかざして、雨を防ぎながら走りだす。屋根のないところへ出ると、雨の激しさが予想よりもずっと増しているように感じられる。ななめに降りつけてくる雨は、鞄だけではまったく防ぎきれない。あっという間に、ぼくはずぶぬれになってしまった。このスーツはクリーニングに出さなければならない。
 当然のことだが帰り道は閑散としていた。こんな雨の日に好き好んで外を歩く輩はいないということらしい。むろん傘をさした人とすれ違うことも何回か、あることはあった。傘の下から見えた彼らの表情はぼくへの憐れみに満ちているような気がして、ぼくはあえて目をそらして、見ないようにした。
 ああ、走り疲れた。
「……ちくしょう」
息を切らして立ち止まり、体を休めながら、ぼくは呟いた。どうせだれも聞いていやしないのだから、独り言を言ったって構わないと思った。しかしそのとき、背後から突然肩を掴まれた。振り向くと、学生服を着た少年が立っている。ぼくと同様に、傘をさしていない。ただ雨に打たれている。服の端からも、黒い髪からも、しずくがぽたぽたとしたたっている。
 その少年のことは、よく知っていた。
「幾斗君」
名前を呼ばれた少年は、にっこりと例の悪魔的な微笑を浮かべた。
「先生も傘忘れたの?」
ぼくはキミの先生じゃない。
そう前置きをしてから、「違う」と答えた。
「じゃあなんで濡れてんの?」
茶化すように問われてから、しまったと思った。傘は持っているけど最初から壊れていた、なんて間抜けなことをいちいち馬鹿正直に言わないで、傘を忘れたことにしておいた方がよかったのではないか。どうせまた「ドジキャラ」だとか言われるのは目に見えているというのに。
「別に……なんでだっていいだろ」
仕方がないので適当にごまかしてみた。
 彼は、ぼくの傘の話にはあまり興味がないらしく、深く追求することはなかった。
「まあいいけど……はやく帰った方がいい」
彼はそう言った。相変わらずの無表情。意図が読めない表情、だ。
「どうして?」
とりあえずそう聞いてみる。
「雨に濡れてる二階堂さん、すごくセンジョーテキだから。このままふらふらしてると、そのへんで襲われちゃうかも」
意地悪くにやにやと笑いながら、彼はそう言った。
 彼の繰り出すこの手のセクハラにはもうだいぶ慣れてきている。
 が、やっぱり完全なポーカーフェイスを保つことはできず、ぼくはやや後方へと後じさりながら、「何を言い出すんだ、キミは」と応じた。その反応がお気に召したらしく、彼はさらに嗜虐的なよくない笑顔になったので、ぼくは
「だいたいキミ、『扇情的』の意味わかってる?」
と早口で尋ねた。
「知ってる。あむじゃあるまいし、子供扱いしないでよ、二階堂さん」
子供扱いされたくないのなら、「先生」なんて呼ばなければいいのに、という文句が喉のところまで出かかったが、抑えた。
「どうしてそこで日奈森さんが出てくるのさ」
少しでも話題をそらしたくて、ぼくはそう話を振った。
「別に」
ぷいと視線をそらしつつ、彼はそっけなくそう答える。
 日奈森さんのことを話すとき、彼はなんだか居心地が悪そうになるということに、ぼくはかなり以前から気づいていた。彼にとっての「日奈森あむ」という存在は、いい意味でも悪い意味でも特別すぎる。きっと彼は、戸惑うしかないくらいに、いろんな思いがないまぜになった複雑な気持ちを抱いている。彼の寂しさ、悲しさ、そして愛情と願い。ぼくは全部、痛いくらいに知っている。それらの感情は、かつてぼくが持っていたものと同種のものであるように思えてならない。
 話題を変えよう、と思った。
「ところで」
と強引に話を転換させて、ぼくは言った。
「はやく帰らないと、風邪ひくよ」
「知ってる」
そっけない返答。別に興味はないとでも言いたげだ。
 その態度に、ぼくは苛立った。
「風邪、ひくよ」
改めて、語気を強めて言った。彼は眉をひそめるようにぴくりと動かして、また同じように「知ってる」と答えた。あくまで意地をはるつもりらしい。彼らしいといえば確かにそうだし、ここで素直に従ってくれたらそれはそれで気味が悪いのだが、このまま放っておくと、この少年はいつまでもこうして雨の中をふらふらしていそうだ。それはさすがに体に良くない。
 全く、仕方ないな、と思う。おせっかいかもしれないけれど、一応アクションを起こしておこう。
 一息ついてから、ぼくはこう言った。
「キミが体調を崩すのは勝手だけど、またあの子が心配するよ」
 あの子というのは彼の実妹である歌唄のことだ。幾斗君の前で彼女の話をするとかなり機嫌が悪くなるということはもちろん重々承知の上だ。案の定、それを聞いた彼の眉間には深いしわが刻まれた。彼は何も言わず、ただぼくを睨みつける。彼の怒りに共鳴するように雨足が強まり、水分を伴って重くなった僕の髪から、髪を束ねていたヘアゴムが落ちた。わざわざ拾うものでもないので放っておくことにする。ほどけた髪が首筋にまとわりついて、少し落ち着かない。
 どれほどの間そうして睨みあっていたかはわからない。ふと気付くと、二人ともバケツの水を頭からかぶったようなありさまになっていた。このままでは本当に風邪をひきそうだ。ぼくは少し辺りを見回してから、勇気を出して、まだ怒気を発し続けている幾斗君のそばに駆け寄り、その手をとった。
「なっ」という小さな声が聞こえた。どうやら驚かせてしまったらしい。それには構わず、ぼくはその手を引いて、軒のある店――今は休業中らしくシャッターが下りている――の前まで彼を引っ張って行った。彼に対しては背を向けていたので、そのとき彼がどんな表情でいたかはわからない。
「雨宿り」
とぶっきらぼうにぼくが言うと、彼はまた黙りこんだ。彼の方を見やると、眉間のしわはいつのまにか消えていた。もう、怒っていないのだろうか。
「幾斗、くん」
おずおずと言いかけたそのとき、幾斗君がこちらを見た。
 射るような挑戦的な視線に、本能的な恐怖を感じる。
「あの、幾斗、く」
もう一度呼ぼうとしたが、彼は最後まで言わせずにぼくを強く突き飛ばした。軒の外側……雨の中へと。バシャーン、と大きな音を立て、ぼくの体が着地した先は水たまりだった。半身を起しながら「何をするんだ」と反駁を企ててみるものの、尻もちをついた体勢のままではいささか威厳に欠ける。
「二階堂さんのくせに生意気」
唐突にそんなことを言われた。それは、これ以上ないほどの罵倒の言葉に聞こえた。まったく、ぼくをいったい何だと思っているんだ。しかしながら、その言葉の響きは、その内容とは裏腹に、少しだけ優しかった。
 ぼくは彼を見た。霞んでぼやけた視界の中で、ただ悄然と立っている彼は、なんだかとても儚げな存在に思えた。どれだけ大人びていたって、言動がませていたって、彼はただ現状に戸惑う少年でしかないということに、ようやく思い至る。
「なんで俺に構うの」
と彼は投げやりな口調で言った。
「俺のことなんて、どうでもいいだろ」
もう「イースター」じゃなくなったあんたには。
 彼がそう言外に匂わせているような気がした。
 そうだ。イースターの操り人形。その言葉の意味を、ぼくはよく知っているじゃないか。どうして見ないふりなんてしていたんだろう。自分は関係ないという勘違いを、していたんだろう。
「どうでもよくなんかない」
自分でも驚くほど力強く、そう言ってしまっていた。そう口に出してから、自分のキャラに合っていないセリフだと気付いた。これではまるで、……あの少女みたいじゃないか。
 しかし構わずにぼくは続ける。
「ぼくはもう舞台を降りた。イースターの味方じゃないし、ガーディアンの味方でもない。でも、それでも、キミを放ってなんておけないよ」
「……どうして」
 何と言えばいいだろう。
 どんな言葉なら、彼に届くだろう。
 そう一瞬迷ってから、ぼくは言った。
「キミはさっき、ぼくのことを『先生』って言ったよね」
幾斗君は質問の意味を計りかねるように首を傾げてから、「ああ」と答えた。
「キミは茶化して皮肉っていただけかもしれない。深い意味なんてなかったかもしれない。でも、ぼくはこう決めてるんだ。ぼくのことを『先生』って呼んで慕ってくれる生徒には、ちゃんと誠意をこめて、全力でサポートしてあげなきゃいけない、って。いつでも一緒に泣いたり笑ったりしなきゃ、ぼくは『先生』っていう言葉の重みに答えられてない気がするから」
 かつて『先生』にそうしてもらったように。
 ぼくは、そうやって生きると――そういう『先生』になるって、決めた。
「だから……だから、それは、ぼくがキミに力を貸す理由には、……ならない、かな」
 その理屈はどう考えてもこじつけで、でっちあげで、彼はそんな理屈を並べるぼくを馬鹿にして笑うに違いないと思った。しかし彼は何も言わずに、水たまりの中に尻もちをついたままのぼくの方へと歩みよってきた。
 何を、する気だろう。ふと、ぼくがあまりに甘ちゃんだから、殴り飛ばす気かもしれない、と思った。そう思うと、彼の目が怒気をはらんでいるように見えてきた。さすがに、殴られるのには慣れていない。怖くなって、思わず目を閉じた。
 足音が止んだので、彼が立ち止まったことがわかった。今彼はどのあたりに立っているのだろう。目を閉じたまま、じっと耳を澄ませて彼の気配を探る。
 唐突に、本当に唐突に、彼の手がぼくの頬に触れた。一瞬殴られたのかと思ったが、違った。その手は優しく、撫ぜるように触れているだけだ。ずっと雨に打たれていた彼の手は、ひどく冷えていた。そう分析した次の瞬間、何かが唇に触れた。驚いて目を開けると、彼の顔がすぐ近くにあった。幾斗君に、キスされていた。
「…………っ!」
もがくけれど、この体勢では振り払えない。彼は愉快そうに目を細めながら舌を入れてくる。くちゅくちゅと音をたてて、ぼくの口の中を彼の舌が這う。突然の出来事に、何が何だかわからなくなって、ぼくは再び目を閉じてしまった。
「二階堂さん、キス下手すぎ」
長いキスを終えて、ぼくの前にしゃがみこんだまま、彼はまずそう言った。
「な……なんでいきなりキスなんかっ……」
「……顔、真っ赤だ」
ぼくの反論などどこ吹く風といった調子で、彼は笑った。なんだか幸せそうな笑顔だったので、ぼくは何も言えなくなってしまった。
「……お礼」
「お礼?」
しばらくの沈黙の後、幾斗君がぼそりと言った言葉を、ぼくは反復した。
「二階堂さんがさっき、俺にアツい告白をしてくれたから、そのお礼」
「こ、告白なんてしてないっ」
慌てて否定すると、彼はまた顔をぼくに近づけてくる。
「……嘘つき」
「う、嘘なんてついて……」
必死に否定しようとするけれども、あまりにも至近距離に彼の顔が……唇があるものだから、ぼくは言葉を続けられなくなってしまう。どうしよう。ドキドキが、止まない。
 そんなぼくの思いを知ってか知らずか、彼はにっと意地悪く笑った。
「これからホテルでも行く?」
「い、行くわけないじゃないか……!」
ぼくの返答を聞いて、彼は残念そうに顔を伏せた。
 その反応に……ぼくは少し、心を痛めてしまった。仕方ないので弁解するように付け加える。
「……えっと、その、別にキミとそういうところに行くのが嫌なわけじゃなくて」
「何本気にしてんの。ジョーダンだし」
彼はさらりと言って笑いながら、ぺろりと舌を出して見せた。
「まったく、もう……」
怒る気にもなれず、ぼくも釣られて笑う。
 彼が笑顔でいてくれる。ぼくもその隣で笑っている。
 この空間が、いつまでも続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。



「雨、止んだ」
彼のその言葉で、叩きつけるように降っていた雨が止んでいることに気づいた。
 立ち上がりながら空を仰ぐと、雲の隙間から太陽が覗いていた。もし今空に虹がかかったら、陳腐なまでによくできたシチュエーションになるな、と思ったけれど、残念ながらそこまで現実離れした現象は起きない。それくらいでいいのだ。ぼくにとっての幸せは、そんな大それたものでなくていい。雲の間から見えるかすかな日の光――そのくらいで、分相応だ。
「さあ、帰ろうか」
ずぶ濡れのままだけれど、ぼくは精一杯の笑顔で、彼にそう声をかけた。






080615