ゴスッ、と鈍い音がした。続いて、何かが倒れるような音。どうやら外で何かあったらしい。かなり大きな音だった。もしかしたら、「何かあった」のはうちのマンションの中かもしれない。……嫌な予感。
 玄関のドアに近づいて、おそるおそる廊下の様子をうかがってみると、嫌な予感は的中だった。ぼくの家の前で、猫が死んでいたのである。
 ……もとい。月詠幾斗が、うつぶせに倒れていた。
「大丈夫?」
慌てて扉を開きながら尋ねると、彼が緩慢な動作で顔を上げ、
「腹、減った」
消え入りそうな声でそれだけ言って、ぱたりとまた意識を失った。
「…………はぁ?」
耳を疑いつつ、とりあえず屍状態の彼を部屋の中に運ぶことにした。別に情けをかけるわけではなく、このまま放っておくと、ご近所に変なうわさが流れたりしそうだからだ。
 彼の体は意外と重く、居間まで引きずって運ぶのにはかなり時間がかかった。時計を見ると、もうすぐ日付が変わる時刻。明日は12月25日だというのに、どうして気絶した男と二人きりで部屋にいるんだ、ぼくは。だいたい、家族が団欒し恋人が愛を育む日、という大前提はどうかと思う。恋人も家族もいない寂しい独身男のことも、少しは考えてほしいものだ。
 心の中でそう毒づいたが、むなしくなってきたのでそのことは考えないことにした。というか、それを口に出して愚痴ってしまうと、今度こそ本当の負け組になってしまう気がする。落ち着こう。平常心、平常心。
 深呼吸をして、ソファに寝かせた彼の横顔を見てみる。顔色は少し悪いが、体調に問題はなさそうだった。起きたら何か食べさせてやるべきだろう。……レトルト食品と、食べかけの宅配ピザくらいしかないけれど。
「ん……」
「あ、起きた」
彼が寝ぼけた目でじっとぼくを見る。
「二階堂さん、運んでくれたのか?」
「そうだよ。大丈夫?……そこにピザあるから食べていいよ。食べられなさそうならお粥か何か作るけど」
レトルトの、という言葉は言わずにおいた。……ささやかなプライドというやつだった。
「腹減った……」
不機嫌そうな声音でもう一度言ってから、少年はもそもそとピザを食べ始めた。まさに『猫に餌付けしているような気分』だ。住みつかれては困るけれど。
「……二階堂さん、一人?」
彼が上目遣いにぼくを見た。
「そうだけど」
「俺も、一人」
ぼそりとそう言った。真意のつかめない言葉だったが、とりあえず頷いておいた。


季節はずれの陽炎


 彼の食事を見ているだけと言うのもつまらないので、ぼくも何か食べることにした。
 ピザを一切れ頬張り、グラスに注いだジュースを一気にあおると、なんだかテンションが上がってきた。ほろ酔い気分……と言いたいところだが、残念ながらオレンジジュースにアルコールは入っていない。
「クリスマスにはケーキ食べて恋人同士で過ごさなきゃいけないなんてセオリーにはうんざりなんだよ……だいたいさぁ……」
もぐもぐとピザを食べつつ、そこまで言ってから我に帰る。
「あれ、ぼくはなんで愚痴ってるんだ」
「さあ」
でもおもしろいから別にいい。
と彼は言ったが、もうぼくの妙なテンションは元に戻っていたのでやめた。彼はつまらなさそうにこうつぶやく。
「……ケーキはともかく、大切な人と過ごすってのは捨てたもんじゃないと思うけど」
それがわかっていて、この子はなんで妹とクリスマスを過ごしてあげないんだろう。
 ぼくの心の声が聞こえたかのように、
「あいつはクリスマスコンサート」
と彼が言った。どこか寂しそうだった。
「行ってあげなくていいの?」
そちらに行けば、もっとまともなものを食べることができただろう。わざわざぼくのところになんて来なくてもよさそうなものだ。ぼくの部屋は彼にとって、行き倒れてまで来る価値のある場所なのだろうか。
「あいつももう子供じゃないんだし、俺がいなくてもちゃんとやってるよ」
歌唄はきっと幾斗に来てほしがっているだろうに。そして、この子もそれを理解しているのだろうに――と思ったが、月詠家の問題にぼくが口を出すのは無粋だ。やめておこう。
 今の歌唄は、『月詠歌唄』ではなく『ほしな歌唄』。たぶん彼は、自分の存在が彼女の夢の邪魔になるのがいやなのだろう、とぼくは以前から思っていた。
「寒いな」
と彼が言った。確かに寒い。ぼくはエアコンのリモコンを操作してから、ピザもジュースも冷え切っていることに気づく。
「何か温かいものを用意するよ。ホットミルク、飲むかい?」
「いい。あんたが作ったら電子レンジが爆発しそう」
「ぼくはそこまで料理音痴じゃないんだけどっ!」
失礼すぎる少年だった。
 まあ、料理ができないのは事実だが。
 彼は低い声でくつくつと笑った。
「……冗談だって。そうやってむきになるから二階堂さんってからかい甲斐あるんだよ」
わかりにくい冗談だな、と思ったが口にはしないでおいた。
 どっちかというとココアがいい、と彼が言ったので、ぼくはキッチンへと向かった。
 熱いコーヒーとココアを持って居間に戻ると、彼がしっぽをぴょこんと立てて待っていた。猫というより犬みたいだ。……犬のようにあるじに忠実でわかりやすい行動をとってくれたらありがたいのだが、実際は気まぐれでぐうたらな猫である。まあ、彼が犬だったとしても、ぼくは「あるじ」には程遠いだろうから、あんまり変わらないかもしれないが。
「……はい、ココア」
彼はマグカップに入ったココアをぐいっと飲んだ。飲み方が妙に男らしくてかっこいい。負けじとコーヒーを一気飲みしようとしたが、猫舌のぼくには無理だった。
「あ、あつっ!」
思わずカップを取り落としそうになる。何事もなかったかのようにカップをテーブルに置こうとしたが、一部始終を見ていたらしく、
「ぷっ」
と彼が噴き出した。
「なっ、何笑ってるんだよっ」
と言ってみるが、彼はやっぱり笑いをこらえている。……ちくしょう、変な見栄を張るんじゃなかった。全力で後悔する。

 かつん、とマグカップをテーブルに置く音がした。
 テーブルの上に並んだ二つのカップを、なんとなく意識した。いつも、そこには冷めきったコーヒーカップが一個あるだけなのに。今日は、二つある。それだけで、日常とは切り離された場所にいるような気がする。
 視線をあげると、かちかちと音を立てながら、時計の針が12時を指すのが見えた。
 ――ああ、今年はひとりじゃないんだ、とふと考える。
 去年までは、誰かと過ごすクリスマスなんてくそくらえと思っていた。けれど今年だけは、彼の言ったとおりに「捨てたもんじゃない」と思った。
「……さっき」
そんなことを考えるぼくに、小さな声で彼が言った。
「さっき、俺も一人だ、って言ったけど」
「うん」
「今は、あんたと二人だ」
二人、という単語にアクセントを置いて。他の誰でもない、幾斗君がそう言った。びっくりすると同時になんだか嬉しくなってきて、ぼくは思わずこう言った。
「メリー・クリスマス、幾斗君」
「……メリー・クリスマス」
何かの儀式のように、彼も同じ言葉を返す。
 マグカップから立ち上る湯気の向こうに、彼の姿が見える。陽炎のように揺らぐ儚げなシルエット。ぼくの視線に気づいた彼が、目を細めて笑った。ぼんやりとしかその表情が見えないのが、少し残念だ。
 プレゼントもケーキもない。絵に描いたようなクリスマスではありえない。でも、こういうのも存外悪くない。「メリー・クリスマス」という呪文のような言葉を誰かとかわし合えることは、普段思っているよりもずっと大切なことなのかもしれない。何にも代えがたい宝石のような輝きを残す彼の言葉を、いつまでも心に抱いていたいと、すがるようにぼくは願った。


081224

クリスマス記念幾悠。
これと対になっている幾斗サイドの話は拍手お礼の方に置いておきますー