結婚するって本当ですか

 結婚というものにこだわっていた自分は愚かだというほかない。結婚なんてしたからといって何が変わるわけでもない。むしろ、自分の嫌いなはずの理不尽な束縛が増すばかりだ。だが、あのときの二階堂は確かに、結婚という事象に明確に希望を持ち、期待すら抱いていた。
 その期待とは、『結婚すれば彼女の気持ちをここに繋ぎ止めておける――自分は安心できるのではないだろうか?』というものだった。
 人の心はあいまいで、すぐに崩れ去る。
 イースターに心酔していたかつての自分やゆかりが、もうこの場所にいないことが、その証だった。
 だからこそ、最後に残ったゆかりの気持ちくらいは繋ぎ止めておきたかった。
 それで、結婚なんて似合わない言葉を口にしてしまったのだろう。
 我ながら単純だ。
 これでは、子供と同レベルだと言われても仕方がない。
 欲しかったのは、簡単に変わることのない何らかの保証と、それに付随する安心だ。
 今まで、いろんなものが消えていった。永遠だと思った絆は、永遠ではなかった。正しいと思った思想は、間違っていた。叩きのめされるたび、心が醜くなった気がした。
 消えてなくならない絆が、欲しかった。
 ただ、それだけだった。

 しかしながら、ゆかりにとっては迷惑だったのかもしれない、と思わなくもない。
 ゆかりもある種、自分と似たようなところがある。二階堂と同じで、彼女は束縛されるのが大嫌いなのだ。
 イースターを抜けてきたのだって、もしかすると会社の重圧から逃れたかっただけかもしれない。
 そんなゆかりを、結婚なんてもので縛ろうとしたから――こんな風に喧嘩になったのだろうか。
 二階堂には、よくわからなかった。
 ゆかりが求めているものが何で、自分はどうやったら彼女にそれを与えられるのか。
 自分は、彼女に必要なのか。
 考えても考えても、答えが出なかった。
 そのまま、ベッドに倒れ込んで寝てしまった。
 夢の中で、昔のゆかりが笑っていた。昔の自分は彼女の隣でやはり笑っていて、二人ともどこか別の世界の人間に見えた。まだ、本当の恋愛も本当の挫折も知らない、二人。
 満ち溢れる笑顔。幸せな風景――けれど、どう探しても、その場所に『結婚』の二文字はなかった。


+++++


 君の夢を見たんだ、と二階堂悠が気持ち悪いことを言った。女の子が好きな男の子の夢を見る、というのならロマンティックに思えるのだけれど、大人の男が同じことを言うと、どうにも気持ちが悪くてもやもやする。そんなことを考えながら、三条ゆかりはため息をついた。
「やっぱり、迷惑だったかな」
彼の言葉の意味が、咄嗟に呑み込めなかった。
「何が? 夢に勝手に人を登場させたこと?」
二階堂は首を横に振る。
「違うよ。結婚の話。よくよく考えたら、迷惑だったかもって思ってさ」
結婚式の段取りや日付まで決めた間柄なのに、迷惑もくそもないだろう。何を言っているのだ。
ゆかりは憮然としたのだが、彼が妙に真剣な表情をしているのを見て、黙った。
「昔のゆかりはさ、いつもにこにこしてて幸せそうだった。今はそうじゃないから、だから……」
「バッカじゃないの」
思わず、ゆかりは突き放すようにそう言った。
「そうやって一人で悩んで勝手に結論出すの、やめてくれる?」
ゆかりが怒りを込めた口調で言ったせいだろうか、二階堂は困りきった顔になって下を向いた。
……まったくもって、この男は。
昔から、全ての事象を理論的に説明しないと、納得しない。
デリカシーというか、恋愛的想像力がなさすぎる男だ。筋金入りの理系人間。
そんなだから、その年まで独身なのだ。
まあ、独身という点に関しては、自分も人のことは言えないのだけれど。
「笑顔だけで生きていける人間なんていないの。みんな、怒ったり泣いたり凹んだりするのよ。いつもにこにこして幸せそうだった? そんなの、外側を取り繕ってるだけに決まってるじゃない。笑顔は誰にでも見せられるけど、泣いた顔や怒った顔は、本当に信頼してる人にしか見せられない。そういうものでしょ?」
「そうかなあ」
ゆかりは、首をかしげる二階堂にデコピンを喰らわせた。

「無理矢理作った笑顔を見せる相手は、一番信用できない相手。そのことは、あなたが一番よくわかってるんじゃないの?」

彼が、ふと視線をそらした。昔の自分を思い返すように。
志を見失い、作り笑いとニセモノの人格で、世間を渡り歩いてきた二階堂。
ゆかりにも似たような部分はあるが、二階堂のやり方は、ゆかりよりも偽悪的だった。
まるで、自分は悪人だとみなに触れまわっているかのような――善人ぶり。
ひどく劣悪なその笑顔を見て、誰もが不快さを感じただろう。何らかの作為の存在を、感じたはずだ。
考えていることと行っていることがちぐはぐな、その不自然な笑顔で、彼は自分をコーティングして守っていた。
「――確かに、そうかもな」
二階堂は首に手をやりながら、その事実を認める。その顔には、もうあの不自然な笑みはない。
「でも、幸せな笑顔を見せられるのも、きっと、とても信頼してる相手だけなんだわ」
ゆかりはぽつりとそう呟いて、無意識のうちに少し笑った。
わたしの笑顔は、あなたのことが信頼できないからここに存在するのではない……そう主張するように。
「俺は、ゆかりの笑顔が好きだよ」
二階堂は、彼らしくない素朴な言い方でゆかりに笑いかけた。
「わたしは、今のあなたの笑顔が好き」
ゆかりは、そっと彼の頬に手をやって、こう言った。
「もう、ニセモノの自分でごまかさないで。逃げないで、そこにいて」

――彼は逃げなかった。二つの笑顔が重なって、鈴のように共鳴する。
その音を聞いて、ゆかりはもう一度ほほ笑んだ。


+++++


 いつのまにか、ゆかりの機嫌は直っていて、自分の不安もおさまっている。そのことに、二階堂は気付いた。
 信頼できない相手に見せた作り物の笑顔と、彼女にささげたいと思う自然な笑顔。
 その二つを明確に区別することなんて、できない。
 『無理に作っている』つもりだったもう一人の自分は、不思議なことに、今はもう『偽らない自分』の一部なのだ。
 その不可思議な奇跡を、聡明な彼女は何と定義するだろう。
 そして彼女は……三条ゆかりは、同じ奇跡が自分の身にも起きていることに気づけるだろうか――
 この世界は、そんな奇跡の積み重ねでできていて。
 同じ奇跡を抱いた自分と彼女が出会えたことすらも、奇跡というひと言で片付いてしまう。
 結婚というのはおそらく、目的ではなく結果なのだ。自分は、そのことに気付かないまま、生きていた。
 二人が一緒にいて、微笑みあうことができるという神秘を、毎日積み重ねて。
 その先に在るのが、純白のドレスで幸せそうに笑んでいる彼女の姿。
 だから、もう不安になる必要はないのだ。
 いつまでだって、待っていよう。
 彼女は、どれだけ遠くへ行っても、必ず自分の元に戻ってきてくれると――ようやく今、二階堂は確信した。



100508



ということで、11巻ネタでした。
ご結婚おめでとうございます、という気持ちを込めて。
二階堂にしてもゆかりにしても、イースター時代の自分があるからこそ今の自分がある!というような話にしたかったのですが、ちょっとずれてしまったかも……と反省中です。
タイトルは昔流行ったフォークソングより。