泥と蓮


 いっそ二人が同じ個体ならよかったのに、と言ってみたことがある。
 何を思ってそんなことを言ったのかはよくわからない。
 ただ、考えた。
 ぼくが彼とすべてを共有していたなら、彼が一人で苦しむこともないのに、と。
 ぼくだけが一人でイースターから解放されて、彼が会社に取り残される悲しみを味わうこともなかった。
 月詠という名前に縛られつづける彼を、一人で悩ませずに済んだ。
 苦しみも悲しみも幸せも運命も、すべてを共にできたら――それはきっと、今より幸せだ。
 そんなぼくに、彼は一言こう言った。
「そんなの嫌だね。だってセックスできないし」
いつもの嫌味だ、いつもどおり笑い飛ばしてほしいのかと、最初は思った。
 でも違った。彼はどこまでも真剣な顔だった。
 セクハラでも嫌味でもない、それは彼の偽らざる本音。
 彼はそうすることでしか、心をつなぎとめておくことができないのだ。
 日奈森あむに対しても、ぼくに対しても。
 彼は他人と、そういうものを通じてしか触れあえない。他に愛し方を知らない。だから、セックスができない相手である歌唄とは――必然的に、距離を置く。
 もちろん、彼が歌唄を遠ざける理由はそれだけではない。けれど、それも一つの理由に違いないとぼくは思うのだ。
 そのことに気づいた日、ぼくはこうつぶやくしかなかった。
「なんて不器用なんだろう」――と。
自分の不器用さを棚に上げて、いびつな笑いを顔に張り付けながら。
 感嘆したように。ぼくは、つぶやいた。
 そして、初めて自分からキスをした。噛みつくように、挑戦的なキスを。
 彼は猫のように目を細めて笑って、唇を奪い返す。
 それはおそらく一つの儀式だった。
 同じ個体に限りなく近いものになるための儀式。
 でも、そんな儀式を経ても、やっぱりぼくらは他人同士なのだ。
 彼にとってそれは幸福なのだろうか。少なくともぼくにとっては、幸福ではなかった。何度体を重ね合わせても、無力感しか残らない。ああ、ぼくという人間が彼のためにできることなんて、こんなくだらないことだけなのか、と嫌気がさす。
 それでも彼が必要としてくれるなら、この体なんて何度でも差し出そう、と今は誓っている。彼を置き去りにしたぼくだから、一人で別の幸せにたどり着いてしまった卑怯なぼくだから――だから、これはきっと愛というより、罪悪感。
 彼が彼の幸せにたどり着けるまで、無限ループのように続く罪の意識。
 彼はぼくが抱くこの感情を知らずにいるのだろうか。とっくに見通しているのだろうか。できたら、前者であってほしい。その方が救われるから、という単純かつ利己的な理由で。

 聞きなれた部屋のチャイムが鳴る。彼が来たのだ。ドアを開ければ、いつもどおりに何も持っていない身一つの彼がぼくを抱きすくめて押し倒してしまう。ぼくはそれを拒まない――否、拒めない。拒否という選択肢はそこにはない。ただ許して受け容れて、願うだけだ。
 彼の幸せを。ただ、それのみを。
 言葉は針のように精神を刺す。針に塗られた毒が、体を侵していくのを感じる。
 もう、動けない。泥の中に沈んでいくだけだ。ぼくの体を沈めていくのはおそらく彼の手だが、彼の手がそこになかったとしても、ぼくの体は自分の重さで沈んでいくに違いない。
 泥の中をかきまわして、必死に何かをつかもうと足掻いているのは――ぼくの方なのか彼の方なのか、いつのまにか見えなくなっていた。泥は不透明で、どうにも視界が淀んでいく。見えない視界の中で、彼の手だけがぼくに触れる。その感覚さえも曖昧にかすんでいくような気がしてならない。

 二人とも、泥の中で溺れて死んでしまったのかもしれない。
 自分が生きているのか死んでいるのかすら、ぼくにはもうわからないのだ。

081212

エロいの書いてやるぜ!
と思っていたのに、いつのまにかよくわからないものになりました
時系列的にはイクト編の前あたりで。