「二階堂さん」
背後から自分を呼ぶ声がする。ぼくはそれを無視して、ひたすらキーボードを叩く。
「二階堂さーん」
無視。
「二階堂さんってば」
……彼の声が少し不機嫌な響きを帯びる。
 振り向かないとあとで大変なことになりそうな気もするが、涙をのんで無視。
「おーい」
無視。
「二階堂せんせーい」
さらに無視……したかったが、このままこの子を放っておくと永遠に名前を呼び続けそうだし、今振り返って注意した方がいいかもしれない、と気づいた。
「あーもう、うるさいよ幾斗君っ! 今仕事中なんだ。あとにしてくれないか」
振り返ると、彼はソファの上でくつろいでいた。突然やって来て、どうして人の家でリラックスしているんだ、この子は。文句は多々言いたかったが、たぶんこの子はあっさりと聞き流してしまうだろうからやめておこう、と思った。
「さっきからずーっと仕事中。もう俺、暇すぎて溶けそうなんだけど」
それなら勝手に溶けていればいい、と言いかけてやめた。この子の前では、自分は言葉を飲み込んでばっかりだ。猫を被っていないときは、好き勝手にずけずけと物を言うのが自分の取り柄だったはずなのだが……しかし最近は「まあこれはこれでいいかな」と思いつつある。
「ちょっと休憩した方がいい」
彼はぶっきらぼうにそれだけ、言った。命令口調だが、どうやら心配してくれているらしい。
「休憩ねえ……」
いい提案ではあった。自分でもそろそろ疲れがピークだと思っていたところだ。
 だが……この子と一緒に「休憩」すると、違う意味での休憩まで一緒について来てしまいそうだ。作業に戻れなくなるのは困る。この仕事は明日までなのだ。
「じゃあ、五分だけ。それ以上はなしだ」
彼は案の定、不満そうな顔になる。
「えー」
「えー、じゃありません。大人には大人の事情があるの!」
何その先生口調、とくすくす笑う彼の隣に座る。もちろん、少し距離を置いて。万年発情猫に近づきすぎると危険なことになるのは、もうとっくに学習済みだった。
「じゃあおやつ食べよう。一緒に」
と彼は言い出す。珍しく建設的な申し出だった。
 こういうまともなことを言い出すのは珍しいな……と思った。しかし、彼がかばんから取り出したものを見て、ぼくはその考えを全力で撤回した。
「……ポッキー」
「そう、ポッキー」
ぼくの言葉を反復する彼は、例のにやにや笑いを浮かべている。
 恋人同士が一緒にポッキーを食べるとなれば、……思い浮かぶことは一つ。
 彼の行動は、その連想を裏切らなかった。袋から取り出したそれの、チョコレートのついた側を軽くくわえて、「ふぁい、どうぞ」と言ってきたのである。言うまでもなく……ポッキーの先をぼくの方へ向けて。
「そんな恥ずかしいこと、できるわけないだろ」
だいたい、チョコレートのついていない方をこっちに向けるのはどうかと思う。彼がチョコレート好きなのは知っているけれど、こういうときは逆にすべきだ。
 ……って、そういう問題ではない。そんなことはどうでもいいじゃないか。何を言ってるんだ、ぼくは。突然の緊急事態に、脳が機能を停止しているようだ。
「ふぁべれふれないほ、おほう」
訳:食べてくれないと、襲う。
……落ち着いて翻訳している場合ではなかった。一大事だ。仕事も残っているのに。
「いやいやいや、無理だって。ほらぼく、一応大人だし?」
営業スマイルで追い払おうとするが、彼に猫かぶりは通用しない。じっとぼくを見据えたまま、徐々に顔を近づけてくる。このままだと、本当に襲われそうだ。だからといって、生き恥を晒すのはごめんだった。後々までからかいのネタにされることは目に見えている。
 仕方がないので――ぼくは目を閉じた。口を開け、それをくわえる。チョコレートのついていない、ポッキーの端。舌で触れると、味気ない生地の味がした。
(……ごめん)
ぼくが謝るのは状況的におかしい気もするが、心の中で言っただけだ。彼には届いていないはずなのでよしとしよう。
 ぼくは意を決し……口にくわえたそれを思いっきり、折った。
 ぽきっ、という軽快な音。
 ……目を開けると、彼がじっとりとぼくを見ていた。恨みがましそうな目だ。それにはかまわずに、ぼくは口の中のそれをもそもそと咀嚼して飲み込んだ。
「なんで折るの」
残りのポッキーを食べながら、彼は静かに抗議した。
「君は『食べてくれないと』って言っただろ。全部食べろとは言ってないよね」
「……屁理屈……」
呆れたようにつぶやく彼に向かい、
「屁理屈はぼくの得意技だからね」
とうそぶきつつ、ぼくは立ち上がってパソコンの前に戻る。時計を見ると、ちょうど五分が経過していた。
 怒った彼が後ろから襲いかかってくる可能性が高いので、椅子に座るまでは背後に警戒していた。が、結局彼はソファから立ち上がらなかった。
「……覚えてろよ」
と言う声は、内容とは裏腹に楽しげだった。座った姿勢のまま振り向くと、ソファに横になりながら目を閉じる彼の姿が見えた。どうやら、ぼくの仕事が終わるまで、そこで待ち伏せすることにしたらしい。その後のことを考えると背筋がぞっとするような気もしたが、とりあえず今はモニターに向かうことにする。彼がこのまま眠りに落ちてしまうことを期待しつつ、キーボードに両手を乗せた。


081111

11月11日と言えばポッキーの日。
ポッキーといえばセクハラ幾斗さん。
テンプレ話で申し訳ない感じですが、こんなかんじの二人が大好きです