恋にあこがれていた。
 どうしようもなく、焦がれていた。誰かを好きになることの幸福は知っていたけれど、恋というものはまだしたことがなかった。きっと、その頃のぼくは、「恋」というものを体験できるならば相手なんて誰だってよかったのだろう。
 彼女を相手に選んだのにも、深い理由なんてなかったのかもしれない。帰り道にふとコンビニに立ち寄るような感覚で、ぼくは彼女に恋をした。擬似的な恋だった。ともすればそれは恋だなんて呼べないんじゃないかと思ってしまうくらいに偽物の、恋だった。
 だからその恋愛はすぐに終わった。本当にあっけない終わりだった。恋が終わったそのとき、彼女もぼくも覚めきっていた。ぼくらは互いにいだき合った憧憬のチープさに気づいてしまった。現実と理想の間には大きなギャップがあるのだと、知ってしまった。
 二人の恋が終わった日、ぼくは彼女の部屋から出て行った。最低限の荷物だけを持って玄関に向かうぼくを彼女が見ていた。二人とも無言だった。さよならも、また会いましょうも、好きだったよも、ごめんねも、ご愁傷さまも、なかった。それで自然だった。その頃のぼくらは、互いの言葉なんて必要としてはいなかった。
 それから数日経って、ぼくはふと、何の脈絡もなく、彼女の家の洗面所に置いてきた自分の歯ブラシの存在を思い出した。カップの中で、仲睦まじく寄り添うように、彼女のものと一緒に置かれたぼくの歯ブラシ。あの歯ブラシはどうなっただろう。
 きっと、几帳面な彼女は、あの歯ブラシを迷わず捨ててしまったのだろう。そうぼくは結論付けた。それどころか、ぼくの私物なんて全部まとめてゴミ袋に詰めて、さっさと捨ててしまったんじゃないかという気すらしてくる。かといって、別段怒りも悲しみもわかない。恋というのは、始まって、終わって、ゴミだけが残る。そういうものだったのだろう。
 それでも、恋は恋だった。
 彼女の名前を忘れることはない。彼女を想った日々も、その日々の中で起こったいろんなできごとも、すべては記憶の中に残っている。無駄ではない。そのはずだ。
 彼女の名前は三条ゆかり。ぼくの名前と自分の名前を比較しては、「三の方が二よりも大きい数だから、わたしの勝ちね」などと理不尽なことを言っていたっけ。そんなことを言われたぼくの方はといえば、確か、「数が大きければ偉いなんて考えは短絡的だ」というような答えを返していた気がする。今考えてみれば、ぼくの答えの方が余裕がなくて、大人げがない。こんな些細なことからも、当時のぼくと彼女の力関係がよくわかる。いつだって、彼女の方がぼくよりも大人なのだ。どうしようもなく。



リバイバル



 二階堂悠という男は大人になりきれていないとわたしは思っている。何にでもむきになるし、そのくせ飽きっぽいし、すぐにいばりたがる。最近、正式に小学校教諭になったという話だったが、あんな人間が教壇に立ってうまくやって行けるのか、非常に心配だ。そのことについて、「あの人自身が小学生みたいだから、小学生の相手が務まるんじゃないのかしら」と歌唄はコメントしたが、真偽のほどは不明である。
 少し前、彼は半ば追い出されるような形で会社を辞めることになった。それによってわたしの出世の確率は一気に増したが、わたしは喜ぶことはできなかった。"明日は我が身"。悠のきっした敗北は、わたしと歌唄の未来を暗示しているようじゃないか。そんな予感がわたしを奮い立たせた。
 はやくしなければいけない。
 はやく、御前にエンブリオを。


 ひどく気が急いている。それは自分でもわかっていた。少しでも気を緩めたら、プレッシャーに押しつぶされてしまいそうだった。わたしは悠のようにはなりたくなかった。負けるのも、御前に失望されるのもごめんだ。
 そんな強迫的な思考に憑かれたわたしは疲労していた。もう何日も寝ていない。今は、会社に提出する中間報告書を書くべくパソコンに向かい合っているところだ。エンブリオさえ手に入れれば報告書なんて書かなくてもいい、と最初は思っていたのだけれど、これを怠ったがゆえに会社側に探りを入れられて自滅した愚かな男のことを思い出して、面倒くさがらずにきちんと書いておくことにした。
 書類の完成まで二時間かかった。時計の針は深夜の三時を指している。体がだるいし、空腹で眠くもならない。何か食べなければ、と思ったけれど、冷蔵庫は空だった。
 仕方ない、コンビニへ行こう。そうつぶやいて、わたしは家のドアを開け、コンビニへ向かった。
 深夜のコンビニは閑散としていた。わたしはふらつきながら弁当と飲み物をかごに入れる。レジへと向かう途中、酒の棚の前で一瞬迷ったのち、一本のビールをそこに加えた。そのとき、わたしの背後で聞いたことのある声がこう言った。
「やあ、ゆかりじゃないか」
振り向くと、今一番会いたくない男が立っていた。彼はやはり、憑きものが落ちたように笑顔だった。まったくもって、気に食わない。
「悠」
わたしは露骨に不機嫌そうな声で答えた。実際、かなり不機嫌だった。
「また根詰めて仕事してるのかい? 頑張ってるんだな」
その言葉は彼なりの励ましだったのだろう。しかしわたしの耳には、わたしを茶化してからかっているように聞こえた。また、その言葉は、余裕をもって見下しているようにも響いた。
「うるさいわよ。負け犬は黙ってなさい」
わたしはそう言いきって、彼に背を向けてレジへ向かおうとした。
 でも――そのとき、ぐらりと世界がひっくり返った。
 地震? いや、違う。わたしの方が転倒したのだ。
 しっかりしろ、と悠が言うのが聞こえた。焦りを含んだ声。
 しっかりしていないのはあなたの方じゃないの。いつだって、空回って失敗ばっかり。少しは進歩したら――そう言ったつもりだったが、言葉は口から出る前に煙のように消えてしまった。床に横たわったわたしの口は、ぱくぱくと動くだけで言葉をなさない。
 意識がなくなる直前、わたしの顔を覗き込む彼の顔が見えた。彼はとても悲しげな顔をしていた。


+++


 入社したての頃、一度だけ風邪で寝込んだことがある。そのとき、会社を休んで寝ていたわたしは、急に温かい料理が食べたくなった。材料は冷蔵庫にいくつか入っていたので、起き上がって作ることにした。少しだけめまいがしたし、熱はまったく下がっていなかった。けれどそのときのわたしは、どうしても料理を作りたかった。熱のせいで判断力が低下していたから、ともいえるが、もしかしたら、ただ寝ているだけの自分が腹立たしかったのかもしれない。
 不安定な視界の中で、わたしは包丁を用意して野菜を切りはじめた。しかし、わたしの手つきはおぼつかなかった。ふとめまいがして、気がついたときには手に持っていたはずの包丁が、床に向って落下していた。同時に、体が均衡を失って大きく後ろに倒れた。
 危ない――そう思った次の瞬間、誰かがわたしの体を抱きとめた。
「危なっかしいな」
とその人物は言った。悠だった。
「いつのまに入ってきたの」
とわたしは呆然として言った。
「気づかなかったわ」
「別に窓から入ってきたわけじゃない」
と彼はおどけるように言った。それを聞いて、わたしはなんだかほっとして、彼の腕の中で、笑顔になった。
「寝てなきゃだめじゃないか」
と悠が言う。優しい口調だ。わたしは素直に頷いて、ベッドに戻った。
 わたしはすぐに眠りに落ちた。そして眠りながら思っていた。先ほどの悠は、おとぎ話に出てくる王子様みたいだった。いつもの彼より何倍もかっこよかった。もしかしたらあれは、わたしの願望が見せた夢だったのかもしれない。目を覚ましたら、全部なかったことになって、部屋には誰もいないのではないか。
 目が覚めると本当に、部屋には誰もいなかった。わたしは少し落胆しながら台所に向かい、そしてあるものを見つけ、目を見開いた。
 それは小さな土鍋に入ったお粥だった。わたしはお粥なんて作った覚えはない。それはなんだか中途半端な色をしていた。食べてみると、たまごと牛乳、砂糖と塩など、いろんな食材が入り混じった複雑な味がした。はっきり言って、まずかった。料理なんてしたことのない彼が、試行錯誤しながら懸命にそれを作っている様子が浮かぶ。わたしは思わずくすくすと笑ってしまった。なんだ、やっぱり悠は悠だ。そう思った。


+++


 コンビニで倒れたはずのわたしは自分の部屋のベッドの上にいた。なんだか昔の夢を見ていた気がする。まだわたしが幸せで無垢だったころの、夢だ。今はあまり思い出したくはない記憶だったので、わたしはこめかみを押さえて首を横に振った。
 体を起こすと、がたりという音がした。誰かがわたしのデスクの前に座っていて、今のはその人物が立ち上がった音であるらしいと気付いた次の瞬間、声がした。
「無茶なことをしたな、ゆかり」
とその人物――悠が言う。よりによって、こんな失態を、この男に見られるとは。最悪な展開だとわたしは思った。もう彼はわたしの彼氏でもイースター社員でもない。ただのおせっかいで馬鹿な男だ。こんなところを見られたくなんかなかった。わたしは下唇を噛む。はやく彼が目の前から消えてしまえばいい。心からそう願った。
「うるさい。わたしはエンブリオを手に入れたいの。そのためなら何だってする。かつてのあなたのようにね」
そうまくしたてると、彼は複雑な表情になって黙った。図星なのだろう。この世の誰よりも、今のわたしの気持ちを理解しているのは、他ならぬ彼なのだから。
「ゆかりの気持ちは痛いほどわかるさ。でも……」
と彼は何か言おうとした。わたしはそれを遮って叫んだ。
「あなたは何様なのよ。もうイースターともわたしとも関係ないくせに! そんなにわたしに未練があるわけ!?」
彼は答えなかった。わたしは苛々した気持ちを抑えきれずに、もう一言、叫んでしまった。
「そんなにわたしのことが大事なの? 教えなさいよ、悠」
悠は苦虫をかみつぶして飲みこんだような顔をしていたが、やがてこう返答した。
「大切なわけないだろう。もしこじらせたりしたら、あの場に居合わせたおれの気分が悪くなるからさ。自分のためだよ」
その言葉を聞いたわたしの眉が悲しげに寄せられるのを見た彼は、目を見開いて、馬鹿みたいに取り乱しながら言い直した。
「……た、大切だよ。ゆかりは今でもぼくの大切な……」
あわてるあまり、一人称が元に戻ってしまっていることに、彼は気づいてはいないのだろう。所詮、そんなのはわたしの前で見栄をはって、格好をつけたいだけ。かりそめのものだ。どれだけ格好をつけても、どれだけ猫をかぶっても、すぐに化けの皮が剥がれてしまうのは、昔から変わらない。悠はひどく粗忽で手抜きな男だ。でも、それが必ずしも悪いこととは限らないと、最近わたしは思い始めていた。
 その台詞の肝心の最後の部分はうまく聞き取れなかった。彼は目を伏せて気まずそうに続けた。
「だからさ、泣かないでくれよ」
 泣いている?
 誰が?
 彼に指摘されて初めて、わたしは自分が涙を流していることを知った。病にかかると人は涙もろくなるというけれど、まさか、このわたしが、本当に泣いてしまうなんて。それも、よりによってこの男の前なんかで。これではまるで、わたしが悠を泣き落としたみたいではないか。泣き落としなんて、愚かな女のすることだ。少なくとも、わたしのキャラじゃない。
「これは、その、目にゴミが入っただけ。それだけよ」
自らの名誉のためにそう言い訳をしてみたのだが、あまり効果はないようだった。悠は、あきれたようにきょとんとしている。
「本当に素直じゃないんだな。相変わらずだ」
ぽつりと、懐かしむように悠がつぶやく。その口元には、作り笑いではない、自然な笑みが添えられていた。
「……わたしは、あなたほどには、自分を偽ってはいないつもりだけど」
口に出してみると、その言葉は負け惜しみのように響いてしまった。わたしはしまったと思ったが、遅かった。彼はやれやれと言いたげに肩をすくめ、
「そうだね。ぼくも、ゆかりくらい自分をさらけ出せたら、いいのかもしれない」
と言った。わたしは不意をつかれたが、自分を認めてもらえたようで、少しだけ嬉しかった。何よりも、彼が、意図的に作った偽りの自分ではなく、ありのままの彼として話してくれているという事実が、わたしを安堵させた。


「……じゃあ、おれは帰るよ」
そう言って、彼が背を向ける。今一人にされるのは少し心細かった。けれど、悠を呼び止めることはしない。呼び止めたいとは思わなかった。もう彼氏でもない赤の他人を、いつまでも独占して束縛できるほど、わたしの神経は太くない。
「お大事に」
悠が、聞こえるか聞こえないかというくらいの微々たる声でそうもらしたのを、わたしは聞き逃さなかった。確かに聞いたということを伝えるために、わたしは大きめの声で、ありがとうと言ってやった。後ろを向いた彼の耳が、わたしの位置からでもよくわかるくらいに真っ赤に染まった。
 本当に、いつまでも成長しない男。わたしは、彼のそういうところが大嫌いで、そして、大好きなのだろうと思う。でも、絶対に、この気持ちを口に出してはやらないと、わたしは今、改めて心に誓った。






080429



ゆかりと悠は似たもの同士!と唱えていたらできた話です
今後、原作でのあの「元さやフラグ」がどんな方向へ発展していくのか非常に楽しみです