牢獄

「ぼくには君が何を考えてるのかわからないよ」
二階堂が漏らした言葉に、月詠幾斗は「俺的にはあんたの方がわかんないし」と返す。
 ここは二階堂の部屋だ。時刻はもう深夜二時を回っているというのに、幾斗は家に帰ろうとしない。ソファでひたすらごろごろしている。ここにいたいわけではなく、帰るのがいやなのだろうと二階堂は思う。
「なんでぼくのところに来るのかな。ぼく、ずっと君に嫌われてると思ってたんだけど」
「好きだから?」
平然と言われたが、その軽薄な調子はあからさまに嘘だった。まともに相手をしても仕方ないので、無視することに決める。適当な返事をして機嫌を損ねても面倒だ。
「明日学校だから、ぼくはシャワー浴びてくるよ」
この間シャワー前に背後から飛びかかられたのを思い返し、二階堂は用心深く早歩きしながらシャワー室へ向かった。幸いにも今日の幾斗はおとなしく、ソファーから起き上がることなく「いってらっしゃい」と言った。

 シャワーから出てくると、彼はまだそこにいた。
「おかえり」
と言いつつ、幾斗はソファーから立ちあがる。猫のように身軽に歩きだす彼は、臨戦態勢になる二階堂を見てにやにやした。二階堂が後ずさると、彼は降参するみたいに両手を挙げる。
「何もしない。明日学校なんだろ?」
「……君のいうことは信用できない」
「失敬な」
二階堂の口癖を真似して幾斗が言った。
「俺ほど信用できる男もそうそういないと思うけど」
「その妙な自信はどこから来るんだよ……」
二階堂は呆れる。
「君が仮に信用できる男だとしたら、ぼくなんてその五倍は信用できるよ」
「二階堂さんは、混乱すると意味のわからないことを言うよね」
幾斗は楽しそうに微笑しながら言う。「かーわいー」
「大人をからかって遊ぶもんじゃない」
そう諫めつつ、首に巻いたバスタオルに触れる。乾いた布の感触が心地よい。
「そもそも意味がわからなくないし。ぼくは学校ではけっこう信用されて……」
「二階堂さんが信用されてるわけないし……妄想じゃないの」
手ひどい少年だった。いつものことだが、この毒舌、いくら仲良くなってもやめるつもりはないらしい。
 だが、ここまで清々しく『妄想』と言い切られると、自信がなくなって来てしまう。自分が信頼されている、なんていう事実は幻想なのかもしれない。我ながら単純だな、と考えた。自分自身の精神というものは、終わりのない迷宮のように複雑で、簡単に理解されることなどないと思っていた。思いつづけてきた。
 しかし、実際のところ、自我とかアイデンティティとかいうものは、反吐が出るほど単純明快なのかもしれない。簡単に、一言でまとめられてしまう。「しゅごたま」という存在も、その事実を裏付けている。人の願望はたくさんある。「なりたい自分」、未来のビジョンは無数に存在する。それでも子供たちが持つたまごは、基本的に一人に一つだけ。叶えたいと願う大切な願いは、たったひとつしかないということだ。
「でもさ、そういう風に思えるってことは、けっこう大事なんじゃないの」
そう言う幾斗は遠くを見ていた。どこを見ているわけでもなく、ただ二階堂の後ろの方を。
「二階堂さんは、それでいい、きっと」
彼の言葉は諦観に満ちているような気がした。少し、心が冷えた。揺れるように、感情が動いた。そうして、二階堂は言わなくてもいいことを言ってしまった。
「君はどうする、これから」
幾斗は気だるそうだった。うつろな目は、何も映さない。彼はいつもそうだ。自分自身のことは、あまり考えたくないらしい。
「どうもしない。ただ、守るだけだ」
そう、彼は守るだけ。妹と、父親の誇りを、ひたすらに守る。彼の抱いた願いはすでに、誰にも触れられない場所に隠されている。幾斗自身もそれに触れようとは思わない。それがどれだけ悲しいことか、どれだけ心を軋ませることか、二階堂は知ってしまっている。
「それじゃダメなんじゃないのか」
ダメになる。精神に無理を強いれば、いずれたまごは壊れてしまう。たまごだけではなく、彼自身も。とっくの昔にわかっていたことのはずなのに、二階堂は今更のようにそのことが怖くなった。彼を失うのは怖い。こうして話している今も、その未来はすぐそこにある。
「俺は、一番大切なものを守る。何があってもそれだけは守り切るって決めた」
つまり、彼はすでに覚悟を決めている。イースターのために、誇り以外のすべてを捨てる覚悟を。命も、精神も、誰かに愛される権利すら、彼はあっさりと放り投げてしまう。周囲でそれを見ている人間が、どんなに心を痛ませるか……幾斗は知らない。
「ぼくは嫌だよ」
「あんたがどう思っても、これだけは譲れない」
「でも嫌なんだ、君がいなくなるのは」
何を言っても、止められることなんてできないとわかっていた。それでも言わずにはいられない。言わなくては、後悔する。すべて失ってからでは、言葉を――願いを伝えることはできない。
「嫌だ……わかってるのに、嫌なんだよ……」
いつのまにか、半分泣いているような情けない声になっていた。これでは自分は馬鹿みたいだ、と思う。どれだけ泣いたって、幾斗が大切な物の順番を入れ替えることはないのに。
「俺は、二階堂さんや、歌唄や、あむがそういう風に思ってくれるだけで、満足できる」
ぽつり、と彼が言った。
「ぼくはそんなんじゃ満足できない」
二階堂が反論すると、幾斗は目を細めて笑う。その動作は妙に落ち着いていて、余裕があって。つまり彼には迷う余地なんて少しも残されていないのだ、とわかった。彼は最初から、誰かのために迷ったりしない。
「二階堂さん、目をつぶって」
奇妙に思えるほど優しい声音で彼がそう言った。「早く」
 言われたとおり、目を閉じる。部屋はしんと静かになる。ふわりと、近くに彼を感じる。少し、心が飛びあがるように躍る。
「俺は、感謝してるから」
耳元で告げられた言葉は、二階堂をそこから動けなくさせる。目を開けることすら怖い。今、彼がどんな顔で、どんな風に、何を思って、そこにいるのか。それを考えることが怖い。怖くて怖くてたまらない。
 震える二階堂の肩を、彼の指先が少しだけなぞり、すぐに離れた。何をすることもなく、ただ存在を確かめるように触れた。それで終わりだった。
「じゃあ、さよなら」
 しばらくの沈黙の後の彼の言葉は、とても遠くで聞こえた。
 すぐに目を開ける。もう幾斗の姿はどこにもなかった。自分は何をしていた?……何もできなかった。
 そう、いつだって、彼のために何かできたことなんてないのだ。
 自分は所詮、その程度の。
「ちくしょう……」

 信用されている、だって?
 そんなことに何の意味があるって言うんだろう。
 信用されていたって、心を預けられなければ意味がない。
 身を呈して守ってやることができなければ、信頼は重くてつらいだけだ。

「ぼくは……」
その先に続く言葉は、どんなに尖った暴言でも構わないと思った。今はただ、そうして自分を責めていることしかできない。自分には何もない。誰かを救うための手段も力もない。そんなことは昔からわかりきっていたはずなのに、今はそれが重厚な足枷に思える。動けなくなっていくのだ。手も足も枷に繋がれて、動きたいという意思すら失って。そこにとどまっているだけの、無意味な存在になる。息をすることすら億劫に思え、二階堂は空気を求める魚のように、上を向いて少しだけ息を吸った。

090609