ロシアンルーレット・マイライフ

 カラオケボックスにはいい思い出がない。自分は歌うのが好きじゃないし、どちらかといえば音痴だ。そんな人間が強制的にマイクを持たされて、いい思い出なんてできるはずがない。カラオケに誘われても大概の場合断るのだが、どうしても断れない誘いというものが世の中には存在し、そしてそのたびに苦い思い出が増えていくわけだ。トラウマ、とまではいかないが、思い出すと眉間にしわが寄る程度の、苦い思い出が。
 そもそも、どうして歌うのが嫌いな人間をカラオケに誘うのだろう。他人と知り合ったらとりあえずカラオケに行く、という習慣はこの日本において多大なる害悪だと、ぼくは思うわけである。ぼくは歌いたくないし、他人の前で醜態をさらすことに快感を覚える物好きでもないのだ。

 ……と言っているにもかかわらず、ぼくをカラオケに誘う人間がいる。それも、今、ぼくの目の前に。
「で、俺とカラオケに行ってくれるのか、くれないのか。どっち?」
と言いつつ、目の前にいる彼が首を傾けた。ぼくの長々とした愚痴に辟易しているのかと思ったが、まだ機嫌よさそうににやにやしているので、そうでもないらしい。
「行かない」
と即答する。少し彼の眉が寄る。彼を怒らせすぎるとろくな目に合わないことは知っている。うまく断らなければ。
「どうして?」
「もう理由は説明しただろ。一、歌うのは嫌いだ。二、ぼくは音痴。三、それより何より、君と二人っきりで密室に閉じ込められたら、何をされるかわからない」
「別に、閉じ込めたりしないけど」
彼はそう言っているが、信用できるはずがない。何しろ、言葉は悪いが前科者だ。勢いで押し倒されたり、機嫌が悪いからってキスをしまくられたり、その他にもいろいろと筆舌に尽くしがたいことをされている。それこそ思い出したくもないような。
 彼はすねたようにこう言った。
「どうしても行ってくれないなら舌を噛んで死ぬぜ」
「嘘つけ!」
「ただし二階堂さんの舌を」
「ぼくのかよ!」
死ぬのはぼくの方だった。
 つまり、端的に言うと脅しだった。
 彼に押し切られてしまうこのパターンは、いつもと一緒じゃないか……と、ぼくは嘆息する。
 しかし、舌を噛まれて死ぬという前代未聞な死に方をするのも嫌だったので、とりあえずオーケーしてしまうことにした。あんずるより産むがやすし、というか、処理ができるだけ楽な方へ流れていくだけだ。流されていく、と言った方が近いかもしれない。
 自分は彼に流されている。どうしようもなく、引っ張られていく。まるで地球の引力に月が引かれているみたいに、鮮明な力だ。それを魅力と呼ぶのか、惰性と呼ぶのか、腐れ縁と呼ぶのかは好みの問題だろうと思う。なんにせよ、情に流されてしまっている事実は変化しないのだ。


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 そして、カラオケボックスに来てしまったわけだ。部屋はそこそこの広さ。角部屋だった。廊下の一番奥にあるので、火事が起きたら逃げられないだろう、と思ったぼくはまず非常口の場所を確認した。ついでにトイレの位置と、自分の部屋の番号を覚える。一度、自分のいた部屋がどこなのかわからなくなって、違う部屋に入ってしまったことがあるためだ。あの間違いは、できたら繰り返したくない。
「何してんの、二階堂さん。逃げ道の確認?」
と言った幾斗くんはなんだか勘違いをしているようだったので、
「いざというときのためのチェックだよ」
ぼくはそうごまかしてみた。
「やっぱり逃げる気なんだ。俺から」
とか言いながらいじけるようにそっぽを向いてしまった彼は、やっぱり何か勘違いしている。だから、別に君から逃げるんじゃないんだけれど……というか、逃げなければならないようなことをする気なのか。ぼくが逃げたくなるようなことに、これから及ぶ気なのか。一応密室とはいえ、ここは家じゃないって言うのに。
 発情猫のおそろしさというものを噛みしめつつ、ぼくはやれやれ、と思う。もうここまで来てしまったのだから、度を越した事態になったら全力で逃げる、それ以外はなんとか我慢する、ということでいいだろう。ぼくは非常事態に備えて一番ドアに近い椅子に腰かけ、歌本をめくり始めた。幾斗くんは妹の曲でも入れるのかと思いきや、数年前のJ-POPという非常にベタな選択をして、普通に歌い始めた。ぼくも同じような、数年前に流行っていた曲をチョイスして、マイクを手に持った。
 幾斗くんが歌い終え、ぼくが歌い終えると、彼はなぜか二人のマイクを入れ替えた。次に彼が入れた曲のイントロがすでに始まっていたので、どうしてマイクを入れ替えたのか、と尋ねるタイミングを逃してしまった。
 彼が歌い終わるのを待って、ぼくはこう質問した。
「なんで、さっきマイクを入れ替えたの? そっちのマイクは壊れてるとか?」
壊れているのなら、電話して変えてもらった方がいいんじゃないかと思った。が、予想に反して彼は邪悪な笑みを浮かべた。
「二階堂さんは気付いていないかもしれないけど」
「うん?」
「二階堂さんって、歌うときにマイクにちょっと口がついてるんだよね。近眼だからだろうけど、前かがみすぎてて。必死ですっげえかわいい」
「それと、マイクの入れ替えとどういう関係が――」
尋ねる途中で、彼の言おうとしていることに気付いた。
「ああ、うん、言わなくていいややっぱり。黙ってていいよ幾斗くん!」
ぼくは華麗に前言撤回しようとしたのだが、
「やっぱりカラオケボックスと言ったら、間接キスだよな」
とド直球で返答されてしまった。
「幾斗くん、気づいてくれ、それは変態だ!」
思わず決死の突っ込みをいれてしまった。
「間接キスは、ジュースの回し飲みに憧れる乙女たちの普遍的嗜好。二階堂さんはそんな乙女たちを敵に回すんだ……」
幾斗くんはむしろ開き直っていた。キャラチェンジでもしたのかと思うくらいにキャラが違う気がする。テンションが上がり過ぎているのだろう。理由は知らないが。
彼の口から、乙女、なんて単語を聞く日が来るとは思っていなかった。人生、何が起こるかわからないものだ。
「いやいやいや、ぼくも君もそもそも乙女じゃないし。しかもジュースの回し飲みと、使用済マイクに直接キスをする行為の間には、全然全く嗜好の種類としての共通項が見いだせません!」
「つまり、二階堂さんはマイクより直接自分にキスをしてほしいってこと?」
「人の話聞けよ!」
そんな会話を遮るように、店員が入ってきて飲み物を置いていった。ぼくはアイスコーヒー、彼はオレンジジュースだ。別に彼がオレンジジュース好きだからではなく、「別にどれでもいい」と言って受付の人を困らせていたので、ぼくが勝手に決めたのだった。
 幾斗くんはオレンジジュースを少し飲み、ぼくはアイスコーヒーに付属していたミルクとシロップを横にどけた。コーヒーはブラックで飲む主義だからだ。
「えーと……次はぼくの番、かな」
ぼくは手に持った歌本に目を落とす。その瞬間、彼を視界から逃してしまった。その隙を狙っていたのだろう、本をめくっていた方の手を急につかまれる。そのまま、強引に身体を押し倒す力を感じる。ああもう、やっぱりそういうことがしたいのかよ!万年発情期め!と心中で毒づきつつ、ぼくはとりあえず、こう言った。
「……もうちょっとドアから遠いところにした方がいいと思う」
「別にいいだろ、どこだって」
彼は話を聞いていない。おそらく、聞く気もない。座っているときは多少ふかふかした椅子だと思っていたのだけれど、背中をつけて体重を預けてみると、案外堅い椅子だった。あとで背中が痛くなりそうだ。まあ、床に転がされるよりはマシだけど。
 彼は頬や首筋にキスを落とし始め、その間ぼくはひたすら黙っていた。火照ってくる身体を感じつつ、それを無視して知らないふりをする。どこか退廃的で背徳的な気分だ。思わず、目を閉じてしまう。目を閉じると、他の感覚が過敏になる。彼の息遣いが聞こえ、脳が徐々に思考することを放棄しようとする。心臓も、ものすごく速く打っているのがわかる。
「二階堂さん」
「何?」
できたら話しかけないでほしいな、と思っていると、彼はにやりとした。
「やっぱり、直接キスの方がいいよな、間接キスより」
その話を蒸し返すのもやめてほしかった。
「君の場合、どっちにしろあんまり変わんないよ」
「お褒めにあずかり、光栄の至り」
いや、褒めてないし。やれやれ、と思う。少し体から力が抜けてしまい、またそのタイミングを絶妙に狙って彼がその手をぼくのシャツのボタンにかけ始める。ボタンはすぐに外れて、胸と腹が外の空気に触れる。
「…………っ!」
そのとき、やっぱりここは嫌だ、と思ってしまった。外の廊下を通る人の気配がする。扉一枚隔てて、知らない人間が歩いている。角部屋だから、この部屋の前にまでは人は来ないけれど、この場所で醜態をさらすのは、思っていたよりもずっとヘビーだ。
「あのさ幾斗くん、やっぱり」
「聞こえない」
「幾斗、く……んんっ」
彼は問答無用でぼくの胸に舌を這わせ、ぼくはそれ以上、抗議を続けられなくなってしまった。されていることはいつもと同じなのに、屋外だからというだけで、いつもよりも体が熱い。意識がパンクして暴発する、という単語が浮かんだ。血液と体液が同時に沸騰する瞬間というものがあるとしたら、今がまさにそれだ。
「や、やめ……」
「ここまで来てやめるとか、ありえねーし」
確かにそうかも知れなかった。でもやっぱり、人並みの羞恥心、あるいは常識というものが――と言い訳をしたいのだが、ズボンのチャックの上を撫でるように触れてくる彼の手の動きに気を取られ、それどころではなくなった。
「ちょ、……ちょっとま、」
チャックの開く音がして、下半身を束縛していた布が一気にゆるくなる。
……ああもう、ここまで来たらどうにでもなればいい……と、ぼくは覚悟を決めた。のだが。

 そのとき、突然扉が開いて、外の空気が流れ込んできた。
 外の空気は少しひんやりとしていて、現実世界に回帰したのだ、という感覚を肌に伝える。熱を持った体に、とても心地よい冷気。しかし、なぜ今ドアが――と思っていると、
「失礼しまーす、ご注文のロシアンルーレットたこ焼き、大盛りでございま……」
営業スマイル全開の店員の声がした。女性だ。椅子に仰向けに寝ているぼくには、彼女の姿が上下さかさまに見える。どこか間抜けな演出に思えた。笑うタイミングではありえないのに、笑えてしまう。
 結論から言ってしまえば、見習いのバイトのような風貌の彼女は、部屋を間違えたのだった。考えうる限り、最悪のタイミングで。
「……あの、それは注文してないんですけど」
一応落ち着いた口調でそう言ってみたのだけれど――当然、彼女は絹を裂くように悲鳴を上げながら、慌てて出ていった。弁解する暇もほとんどなく、ぼくらはそのまま、注意を受けて店から放り出された。
 ぼくはひたすら平謝りに謝り、もう一生分の「すいません」をここで使い果たしたのではないかと思うくらいに謝った。幾斗くんは注意を完全に受け流して平然としていた。仕方ないので、彼の分までぼくが謝った。
 このとき、あなたの方が大人なんだからしっかり保護者としての責任を果たしてほしいものです、というようなニュアンスの注意をされまくったのだけれど、まさにそのとおりだったのでまったく反論できない。いつだって、責任は大人の方に押し付けられるものなのだった。

 こうして、カラオケボックスに関する忘れたい記憶がまたひとつ増えた。やっぱりカラオケになんて行くもんじゃねえ、とぼくは今でも心の底から思っている。一方、まったく懲りていない幾斗くんはまた忘れたころに「カラオケ行こうよ」と言いだしそうな雰囲気だ。が、今度は絶対、簡単に首を縦には振らないでおこうと思う。他の所ならどこでも行ってあげる、と妥協しておくことにする。だが、そうするとまた妙な所に連れて行かれる可能性があるので、とりあえず無難な場所へ行くことをさりげなく勧める予定である。




090928




カラオケはエロいことをするための場所ですよねー、っていう勝手な先入観に基づいてお届けしました。
たぶん、幾斗もカラオケ自体はそんなに好きじゃないだろうと思う(w