深淵
「なんかさー」 ころりと自分のベッドに横になりながら、二階堂はこう口にした。 「キミってよくわかんないけどムカつくよね」 パソコンの前の椅子に腰かけた幾斗は、特に顔色を変えることもなく、 「いきなりムカつくとか言われても困るんだけど」 と応じた。 「だってさ、キミ、ぼくにはできないことをさらっとしちゃうんだもん。ぼくがやりたくてもできないことでも、あっさり」 「二階堂さんは、俺のこと、うらやましいの?」 二階堂はその問いに、一瞬言葉を詰まらせてからこう答えた。 「……うらやましいよ。すごく、うらやましい」 「俺みたいなのが、二階堂さんの『なりたい自分』なわけ?」 なりたい自分。 その言葉は、あまり聞きたくなかった。 いくら復元されたとは言え、自分のたまごを割ってしまったかつての自分の罪は、消えない。 なりたい自分を、壊した自分。否定した、自分。 それは二階堂にとって、何よりも忘れたい過去だ。 「それは、わからない。ぼくはどんな自分になりたかったのか、どんな『なりたい自分』を欲していたのか、もうわからなくなってしまったから」 それは愚痴のような響きを伴って出た言葉だった。言ってしまってから、少し後悔した。彼を不快な気持ちにさせただろうか、そう思って身を起こすと、幾斗は冷めた目でこちらを見た。 「俺にもわかんないよ、なりたい自分なんてさ。たぶん、あいつだってわかってない」 「あいつ?」 「日奈森、あむ」 彼の口から出たのは、あの少女の名前だった。少し愁いを帯びてはいるけれど、その口調には確かに彼女への彼の好意が秘められているような気がして、二階堂は少しイライラした。イライラの根源にあるのが、自分のあむへの執着心か、それとも幾斗への執着心か、それは判断できなかったが、たぶん、両方だと二階堂は思った。 「キミはヒマ森さんが好きなんだよね」 思わず言ってしまった言葉には明らかに棘があった。嫉妬という名の、棘。 しまった、と思ったが遅い。幾斗は眉間にしわを寄せて顔をしかめたあと、 「あんたは」 幾斗は椅子から立ち上がってこちらを指差した。 「あんたは、誰が好きなんだよ、二階堂悠」 先ほどまでの落ち着いた雰囲気が消えている。彼に似合わぬ高圧的な口調。どうやら怒っているようだ。指摘してはいけないことを指摘してしまったらしいな、と二階堂は思う。 「ごめん、幾斗君。そういうつもりで言ったんじゃ……」 「いいから答えろよ。あんたは、誰が、好きなんだ」 その問いは二階堂の心をかき回すばかりで、すぐに明確な答えなど出るはずはない。答えが出たとしても、それを幾斗に言えるはずはなかった。しかし幾斗の鋭い目は回答を要求している。何と答えればいいものか迷った挙句、二階堂は答えた。 「ぼくは誰のことも好きじゃないよ。誰かを好きになるなんて、愚か者のすることだからね」 ああ、この言葉はまた彼の心を逆なでするに違いない。わかっているのにもかかわらず、二階堂はそれを口にしてしまった。彼の眉間にさらにしわが寄るのが見えた。 幾斗はつかつかとこちらに歩いて来て、二階堂の襟をつかんで締め上げる。 「そうやって逃げることが、本当にかっこいいと思ってんの?」 「そんなわけないだろ。でもこれがぼくの生き方なんだ。今更変えられない」 首をしめられているためうまくしゃべることができかったが、二階堂はそう答えた。 幾斗は思い出したかのようにぱっと手を離す。二階堂の体がベッドに落ちた。 「あんたのそういうところが嫌いだよ」 幾斗はそう言って玄関へと歩いていく。 二階堂は後を追うことなく、ベッドに座ったまま、幾斗の背中にこう声をかけた。 「ぼくだって嫌いだよ、こんな『自分』は」 キィ、と音をたてて玄関のドアが開き、彼の姿は外の世界へと消えていった。 二階堂はぐしゃぐしゃと右手で自分の髪をかき回し、 「あー……」 ため息をつきながら、先ほどの彼の質問に対する答えを、無意識に呟いていた。 「ぼくの好きなのは、……たぶん、キミなんだよ、幾斗君」 言ったところで受け入れられるはずもない、そして伝えるつもりもない、――でも確かにそこにある、揺るがない気持ち。憐憫、羨望、好意、その他、いろんな感情が入り混じった複雑なこの想いを、何と呼べばいいだろうかと、二階堂はぼんやり考えていた。部屋の中にはかすかに彼のいた痕跡が残っている気がした。誰もいない部屋はひどく広すぎるように思えて、二階堂はまたため息をついて、ベッドに横になった。 080218 二人の関係とか口調とかつかみたくて書いてみた習作。 悠は幾斗やあむの生き方がうらやましいんじゃないかなと思ってます うちの幾斗は悠が好きだったりあむが好きだったり、 歌唄の腰に敷かれていたりするよくわからない人です |