「あーもうちくしょうっ」
思わず悪態をつくと、周囲の視線が自分の元へ集まってきた。気まずくなって、適当にごまかしながら作り笑いをしてみる。
「あはは、な、なんでもないです」
しかし誰も何も言わない。他人だから当たり前なんだけどさ。
 ……小奇麗に着飾ったお金持ちのおばさま方の波に埋もれつつ、二階堂はデパートの地下にいる。一応、今日は2月14日。普通、いい年の男がこんな場所にいるはずはない。
 なにせ、ここはチョコレート売り場なのだから。
「まったく……ゆかりのやつ」
彼は、恨みがましくそうつぶやいた。

+++

 発端は数時間前。
 自室でくつろいでいた彼のところに、騒々しい元恋人がやってきたのが、不運の始まりだった。
「ゆーうー? いるんでしょ? 開けて!」
ピンポンピンポンピンポン。インターホンに二階堂が出る前からチャイムを連打しまくる非常識女、その正体は元同僚。今はただの腐れ縁の似たもの同士。三条ゆかりだ。
「開ける、開けてやるから連打するのはやめろ。うちのチャイムが壊れるっ」
ドアを開けるといつもどおりの服装で、いつもどおりのクールぶった表情のゆかりが立っていた。仕事の帰りらしく、スーツを着てバッグを持っている。
「何の用だよ、こんな時間にチャイム押しまくりやがって。俺がご近所さんに嫌われたらどうしてくれるんだ」
「どうせ好かれてもいないだろうからたいして変わらないわ」
相変わらず、ひどい言い草だった。はぁ、と思わずため息が漏れる。
「お前ってやつは……」
「そんなことより」
ゆかりはどうでもよさそうに話題を断ち切った。そして、その白い掌をこちらへ差し出す。
「なんだその手は」
「チョコレート、ちょうだい。悠」
「………………はぁ?」
つい、素の状態で問い返してしまった。
「チョコレートよ。今日は何の日か知ってる?」
「知ってる。知ってるけど、バレンタインって女が男にチョコレートあげる日じゃないのかよ」
彼女はちっちっちっ、と人差し指を振る。
「甘いわ。今年の流行は逆チョコ。男が女にチョコレートをあげるのも礼儀のうちなの。そんなことも知らないから、いい年して独身なのよねー、二階堂センセイは」
何という勝手な言葉だろうか。そもそも、ゆかりだって独身である。人のことは言えないではないか。
「そんなチョコレート会社の陰謀めいた行事に加担するつもりはない。うちにはチョコレートの買い置きはないし、催促に来ても無駄だぜ?」
クールに返したところ、ゆかりは不快そうに眉をひそめた。
「はぁ? ないならさっさと買いに行きなさい」
「な、なんで俺が……」
反論しようとすると、でびしっ、と鈍い音を立てて額を攻撃された。いわゆるデコピン。
「男なら、つべこべ言わずに買いに行くのよ」
「だから、なんで俺が」
もう一度反論しようとしたが、今度はずべしっ、と弁慶の泣き所を蹴られた。
「いっ、てええ……」
「ほら、さっさと買いに行きなさい。ちなみに、予算は1000円以上だから。安物買ってきたらあんたの恥ずかしい秘密を社内に暴露大会よ」
なんで今日のゆかりはこんなに横暴なんだろうか……そして恥ずかしい秘密とは何なのだ。心当たりがありすぎて、逆に予想できない。
「じゃあ、いってらっしゃい。わたしは悠の部屋でくつろがせてもらうから」
無理やり玄関から外に放り出された。ばたん。非情にも目の前でドアが閉まり、二階堂は外に一人で取り残された。


 というわけで、なぜかチョコレートを買わなければならなくなった。
「なんっか納得いかねえ……」
逆チョコが流行っているのが事実だったとしても、二階堂がゆかりにチョコレートを渡さなければならない理由なんてないはずなのだ。もう恋人でも同僚でもない。ただの他人なのに。
 しかし何も買わずに戻ったら暴露大会開催らしいので、素直にチョコレートを買って帰ることにする。もうやめた会社の中で自分の秘密(しかも内容は不明)がばらまかれるというのは想像しただけでぞっとする展開だ。それだけは避けたい。
「あ、あの、このセットを一個ください」
「かしこまりました」
財布から千円札が一枚飛び立っていく。一口サイズのチョコレートが数個入っただけのセットなのに、なんでこんなに高いのだろう。ため息をつかざるを得ない。
 上品なショップ袋におさまったチョコレートの箱。それは本当に小さくて、軽い。こんなもので本当にゆかりは満足するのだろうか。女という生き物は実に理解しがたい。


「……ただいま」
部屋に戻ると、ゆかりはソファに寝転びながらテレビを見ていた。くだらないバラエティだ。
「おっかえりー」
「ほら、買って来たぞ。これでいいだろ」
小さな袋を渡してやると、「ありがとー」とぞんざいなお礼の言葉が返ってきた。こちらを見もしないで、封を開けてチョコレートを食べ始める。まあ、礼を言ってもらえるだけマシか……などと考えていると、
「ん。おいしー。悠、意外とセンスいいじゃない」
「意外と、は余計だ。売り場ですっげー悪目立ちしたんだからな。もっと感謝して味わって食べろよ」
「はいはい」
もぐもぐとチョコレートを頬張りつつ、
「あ、悠」
「なんだよ」
「紅茶入れて」
このわがまま女……と思いながらも、「はいはい」とキッチンへ向かってしまう自分が悲しい。これじゃ元恋人っていうより奴隷じゃないか。こんなことをいつもさせられている三条海里はたぶん、とんでもなく苦労人だ。今度会ったら少し慰めてあげよう、と二階堂はひそかに誓った。嫌がられそうだけど。
 そんなことを考えているうちに、数個のチョコレートはすべてゆかりの胃の中におさまったようだった。
「おいしかったー。ごちそうさまでした」
用事は終わった、と言いたげに立ち上がってのびをするゆかりは、
「じゃあ、帰るから」
平然と告げながらバッグを持つ。
「はぁ? おまえ何しに来たんだよ……」
テレビを見てチョコレートを食べただけではないか。
 三条ゆかりは呆れたように笑った。しょうがない人だな、と言いたげに。……そう言いたいのはこちらの方なのだが。
「べっつにー。来てみただけよ。用がないと来ちゃいけないの?」
「そんなことはない、けど」
「じゃあいいでしょう? あ、そうそう」
バッグから何か小さな箱を取り出した彼女は、迷わず彼の顔に投げつけた。
「いってえ……! なんで今日はそんなに暴力的なんだよ!」
痛みに顔を押さえる彼の問いは優雅にスルーして、
「それ、あげるから。誰にもチョコレートもらえなかったかわいそうな悠に、ご慈悲の義理チョコ。じゃあね」
早口で言いながら玄関へと走っていくゆかりの姿を、彼は呆然と見送った。結局何がしたかったんだろう――と思いながら。

+++

「まったく……なんであんなにニブいんだろう」
三条ゆかりは帰り道を歩きながら、ぼそりとつぶやく。
「わたしが何しに来たのかって……そんなの決まってるじゃない」
彼が他の女の子にチョコレートをもらっていないか、それが心配だったのだ。
 あの部屋にはチョコレートも、チョコレートの入っていた箱も、何もなかった。
 ……安心した。まだ、悠は誰か別の女のものにはなっていない。会社を辞めて、もうつながりはなくなってしまったけれど――遠くへは行っていない。
 もちろん、チョコレートを渡したかったというのもある。いや、むしろそっちの方が大切な用事だったのかもしれない。それに、多少強引だったがチョコレートをもらうこともできた。空き箱と袋も、ちゃんと大事に持って帰ってきた。彼はたぶん、気づいてはいないのだろう。
 吐く息は白い。けれど、もうあと二週間もすれば春が来る。彼女の恋に春は訪れないかもしれないが、本物の春は誰にでも平等に訪れる。できれば、春には彼と並んで桜の下を歩いていたいな、と唐突に思う。ピンク色の雪が降る中を、二人きりで。手をつないで。きっと、それはとても幸せなはずだから。

090214

いわゆるひとつのツンデレ、なゆかり姉さんなのだった