昔からアメジストのリングが好きで、外出するときにはお守りがわりに必ず身につけるようにしている。
アメジストのかけらがついた華奢なピンキーリング。たいしたものではないが、「魔除けの石だから、つけておいたほうがいい」と母に言われて以来、基本的に肌身離さずつけている。
が、きょうにかぎって、家を出てしばらくしてから、忘れたことに気がついた。朝、顔を洗うときに外したまま、そこに置いてきてしまった。
これから、デパートに行って買いものをする予定だった。
たいていのものが家にいるだけで買えてしまうこの時代に、たまには外に出るのもいいだろう。そんな衝動的な外出だ。
まあ、たかだか買いもの。
リングがひとつないくらいで、どうということもないだろう……。
少し気になったが、かまわずに歩きだす。
「や、なまえちゃんじゃないか。久しぶりだねえ、うれしいねえ」
デパートに行く途中で、見知った男に出会ってしまった。
ヒエール・ジョコマン……ナルシストで歴史マニアというどうしようもない男である。
職業はなんだったか。うさんくさすぎて忘れてしまった。
「元気してた? ぼくはねえ、ちょっと歴史を変えようかと思ってるんだよねえ最近」
などと勝手に語りだす彼は、やはり以前と変わらず、強引でナルシーだ。
わたしの反応などまったくおかまいなし。ぺらぺらと近況をしゃべりつづける。
「タイムパトロールの不祥事、多いだろ、近頃さ。だからなんとなく、イケるって気がするんだよね」
そんな彼の目のなかで、ゆらゆらと、きらきらと、なにかの破片がちらついている。
さざめく波のなかに見えるボトルメールのように。
紫色に光る妖しいかけら。
三秒に一度くらいだろうか。それが見えると、そのことしか考えられなくなる。ほかの思考がぜんぶかき消されて、ただただ彼のことだけ考える機械に変わる。
この破片はたぶん、彼からのメッセージ。
「サブリミナル効果って、知っているかな?」
淡々と語りだすその声からは、特別な感情は読み取れない。
どこで役に立つのかわからない古代の知識について、彼は誇らしげに語っていった。
「……っていう、便利なものなんだよ。人心掌握って、カリスマにしかできない特別なことっていうイメージあるじゃん。でも、そんなこと全然なくってさ、コツさえつかめば、だれにでもできる簡単なことなんだよねえ」
彼の長い話のあいだ、わたしはずっと彼の目のうちにある『それ』を眺めつづけていた。
三秒に一度。
ワルツのように明滅する『それ』は、わたしの心を、少しずつだが確実に塗り替えていた。
「コツをつかむのが大変っていう説もあるけど、使いこなしてしまえばとっても快適さ。好きなときに好きな人間を支配できる。これを使えば世界征服なんてラクチンラクチン。歴史に残っちゃう気がするねえ。いや~、ぼくってすごいなあ、マジで」
ヒエール・ジョコマン。
この30世紀において、まったく生産性のない『歴史オタク』という趣味を持つ、異様にナルシーで奇妙な男。
初めて会ったとき、わたしはかなり引き気味だったと思う。いまどき、歴史オタクとかないっしょ。それも20世紀が専門だとか。10世紀も前のことなんて、勉強してもしょうがないというものだ。縄文土器や高床式倉庫がわたしたちの生活を潤してくれないのと同じで、20世紀の歴史なんてのは、なんの役にも立たない、くだらないノイズである。
というのが短絡的な理系のわたしの出した結論だったのだけれど、そんなわたしの心に反して、ヒエール・ジョコマンはなぜかぐんぐん距離を詰めはじめた。
彼は歴史を学ぶことの有用性をくどくどと説いた。しつこいくらいに追いすがってはわたしの価値観を変えようとした。
わたしは、変わらなかった。
そんな彼はある日、本気で怒ったふうな目をしてこう言った。
……歴史をバカにするなよ。
……それはぼくをバカにしているのと同じだぞ。
そのときの彼はすこし酒臭かったので、酔っ払っているのだと、軽い気持ちで流してしまった。
あとから考えると、彼はわたしに惚れていたのかもしれない。
自分の想い人が、自分の趣味を理解してくれないという現実が、彼を突き動かしていたのだろうか。
「そんでさぁ、なまえちゃん。話、聞いてた?」
彼のその言葉を聞いて、ハッとした。
どうやらわたしは彼の長話をまったく聞いていなかったようだ。その間、なにをしていたかというと、彼との思い出に浸っていた。ずっと彼のことを考えていたのだ。好きでもないはずの男のことを。
急に、心拍数がかなり上がっている自分に気づいた。
どうしたんだろうか、きょうのわたしはなんだか……変だ。
「ちなみに、ぼくの知っている歴史上では、テレビ放送におけるサブリミナル表現は1995年と1999年に正式に禁止されるんだよねぇ。でも、それなら禁止される前の時間軸に飛んで、その時間でサブリミナル表現を使いまくってやればいいと思わない? ぼくら、未来人なんだからさ」
彼は執拗に同じ話を繰り返している気がしたが、彼の目を見ていると、なにを繰り返されたのかわからなくなってくる。
ああ、また点滅している。
彼の目のなかで。
ボトルメールが波にさらわれてゆく……。
メッセージ……。紫色の光。わたしの大切なアメジストの石。魔除けの石。
受け取らなくては……。
「なまえちゃん」
その声だけがわたしを突き動かす。
彼の話の内容はわからない。
ゆらゆら揺れる高波に隠れてよく見えないそのボトルメールを、わたしは拾いあげる。
拾いあげるしかない、と思ったから。
「おや、どうした? なんだか、具合が悪そうだけど」
彼に問いかけられ、わたしの口が勝手に言葉を紡ぎ出す。
「ね、ヒエール」
自分の声じゃないみたいだ。
魔に、魅入られたみたい。
「これから、一緒に食事でもしない?」
自然に、そのセリフが滑り出た。
とても昔から彼のことが好きだった、そんな確信がある。
毎日欠かさずに小指にまとっていた、紫の光。
その光は、今、彼のなかにあった。
「いいよ。レストランを予約してある。とびきりのやつをね」
彼があっさりと答える。
淡々として、ひとつの迷いもない受け応えは、台本に載った台詞を話すのに似ていた。
レストランへ向かう途中の道すがら、彼がぽつりとひとりごとを言った。
「……受け取ってくれてありがと。ぼくの、メッセージ」
それは、地下の酒蔵のなかで熟成しすぎたワインみたいな、冷えたつぶやきだった。
わたしの心のまんなかを、そのつぶやきが通過していく。最初はとても冷たかったのに、だんだんと熱を持ってわたしを蝕みはじめる。酒は百薬の長のであり、万病のもとである――恋もまた同じ。
サブリミナル
その後、ヒエール・ジョコマンは、彼女の目を盗んで、そっと右の目から薄い膜のようなコンタクトレンズを外した。
紫色にチカチカと点滅する特注品だ。
「たった一枚の最新式コンタクトレンズだけで、他人の心が手に入る。便利な世の中だよねぇ、ほんとうに」
彼はそうつぶやきながら、彼女の冷えた手をとった。
「なまえ、きみとこの時代で出会えてよかったよ」
20180604