東方仗助と閉じられた部屋
ベッドと机がひとつずつ、椅子がふたつ、そして小さめの電気スタンドと本棚。本棚のなかには、いくつかの文学作品。鉛筆とノート。そして、彼がここへ来るためのドア。わたしの世界には、これくらいのものしかない。
わたしは、この部屋がまやかしであることを知っている。
広い世界には『家幽霊』というものが存在するらしいけれど――それにならって表現するのならば、この部屋は『部屋幽霊』とでも言うのがいいかもしれない。『幽霊の部屋』ではなくて、『部屋の幽霊』。
どこにも存在せず、特定の人物にしか認識されない部屋。
この『部屋幽霊』は、どうやらわたしのスタンド能力であるらしい。
このスタンドのことは、虹村億泰の『ザ・ハンド』を真似て、こう呼んでいる。
『ザ・ルーム』と。
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「ちーっす、元気か?」
ガチャリ、とドアが開いて、彼が入ってきた。特徴的なリーゼントと、だぶついた学ラン。
身なりは不良そのものだ。でも、きりりとした目は不良っぽくなく、彼の誠実さを思わせた。
「うん、元気」
彼はにっこり笑って、白い小さな箱を掲げた。
「そいつはよかった。ほれ、きょうもシュークリーム買ってきてやったぜ」
「ありがと、仗助。なにもお礼できないけど……」
「いいっていいって。おれが買いたくて買ってくるだけだからよ」
さっそく、箱からシュークリームを出して、ふたりでひとつずつ頬張る。
シューの中身はアイスクリームだ。
カスタードクリームやホイップクリームもいいけれど、バニラのアイスシューがわたしのお気に入りの味だった。
仗助がわたしの好みを把握していることが、とてもうれしく感じられる。
「しかし、いつ見ても奇妙なスタンドだな。他人が入ることはできても、自分が出ることはできない……そして、おれ以外にこの扉は見えない」
「そうだね。われながら不便なスタンドだと思う」
「『鉄塔男』も、鉄塔から出られなくなってたみたいだし……まあ、よくあることなのかもな」
彼は気まずそうに語尾を濁す。
自分のぶんのシュークリームをたいらげてから、彼は話しだす。
「報告しないといけないことがあるんだ」
「なに? いい報告と悪い報告、どっちかな」
「いい報告と悪い報告、一個ずつ……ってとこだな」
「じゃあ、いい報告から聞かせて?」
仗助は息を思い切り吸って、吐いた。
その動作だけで、これから重大な告白がはじまるのだろうとわかる。
「吉良吉影が、死んだ」
――吉良吉影。
その名前を忘れた日は一日たりともなかった。
わたしが『ザ・ルーム』に閉じ込められることになったのは、吉良のせいなのだから……。
正確には、吉良親子のせい、といえるだろうか。
「そっか。それはすごくいいニュースだね。杜王町に平和が戻るんだ」
心からよいことだと思う一方で、わたしの口調はあまり嬉しげではなかったかもしれない。
そのあとにつづく『悪い報告』の内容を察していたからだろうか。
「……悪いニュースは、なまえの体の一部が見つかったってことだ」
「手、かな?」
「そうだ。あの野郎……手だけ持ち歩いてやがった。あいつが死ぬ前に見せびらかしてたんで取り返したが……本体は爆破済みだってよ」
「じゃあ、わたし、死んでるんだね……」
「そうだ」
身を切られるような顔。わたしよりも仗助のほうがショックを受けているみたいだ。
彼は優しい。他人の痛みを自分のものとして受け取ることができる。
わたしには、自分が死んだという実感はない――当然だ。ずっとここにいて、仗助と話していた。簡単にもとに戻れるとは思っていなかったけど、簡単に死ぬとも思っていなかった。
わたしが吉良吉廣の矢で射られたのは、七月一日のことだったと思う。すぐに意識を失い、目が覚めたらこの部屋にいた。わたしはずっと、この部屋のなかで自分が生きているのだと思っていた。自分の肉体が閉じ込められているのだと、信じていた。しかし、どうやら『魂だけ』がここに閉じ込められており、肉体は吉良吉影に渡されてしまったらしい。吉良親子は『不適合者』と判断したのだろう。実際はこうしてスタンド能力が発現してしまっているというのに。
「スタンドと肉体は常に連動しているっつーのが、おれの認識なんだけどな……どうやら例外もいるらしいな」
仗助は苦々しい口調で言った。
「おれはなにを言えばいいんだろうな。もっと早く吉良の野郎を捕まえていれば、こんなことにはならなかった。ほんとうに、すまない」
「そんなふうに思わないで。仗助は悪くない。ここに来てくれるだけでじゅうぶんだよ」
「そんなわけあるかよ。おれには死んじまうやつの気持ちなんてわからねえかもしれねーぜ、たしかによぉ。けど、けどさあ……」
「仗助……もう来なくてもいいよ」
わたしは彼のセリフを遮って、言った。自分でもひどいことをしていると思ったけれど、でも、言わなければならない。
言わなければ、彼は永遠にこの部屋に来てしまう。
それだけは避けなければ。
彼の報告を聞いて、この『ザ・ルーム』がどういうスタンド能力なのか、ようやくわかりはじめた。
仗助しかここに入れない理由。
わたしの精神の弱さ。
すべてが、ひとつの結論を指し示している。
「なに、バカなこと言ってんだ。おれがここに来なかったら、なまえはずっとひとりでこの部屋にいなくちゃならねえ」
「それでいいんだよ。仗助は優しいよ。涙が出ちゃうくらい、優しいよ。でも……死者にこだわっても何にもならない。仗助は仗助の未来を背負ってる。いつまでもこんな場所にいたら、だめだよ」
――来るな、とわたしは心のなかでも強く念じてみた。
来ないでくれ。
そして、どうか気づかないでくれ。わたしの心に眠る真実に、目を向けないでくれ。
「長いつきあいなのに、見捨てるなんてできるわけねえだろが」
彼はそう言うと思っていた。
でも、だめだ。
このままでは、最悪の結末を迎えてしまう。
「きょうのところは帰って。ね、仗助。わたし、泣きたい気持ちなんだ」
ひとりになって、泣きたいのはほんとうだった。
でも、それは自分が吉良親子に殺されていたからではない。
もっと別の理由があった。
仗助には言えない理由が。
「そうか。そうだよな」
彼は優しいから、泣きたい理由は聞かずに背を向けた。
そして、そのまま部屋を出ていく――悲しげな後ろ姿がせつなさとなって、胸にガラス片のように刺さった。
きっと彼はまた来るだろう。そのたびに、わたしは苦しむのだろう。
もう来なくていい、仗助。ここに来たら、いつかあなたはだめになってしまう。
また、来てほしい。いつまでもここにいてほしい。
矛盾した感情がわたしを惑わせる。
もうずっと前から、彼のことが好きだった。スタンドや殺人鬼をめぐる奇妙なおとぎ話のなかで、彼の輝きはどんどん増していったように思う。
『ザ・ルーム』に仗助しか入れないのは、この部屋に入れる人間は、『わたしに恋されている人間』だけだから、なのだろう。
そして、このスタンドはおそらく、ただの部屋ではない。蟻地獄のように、蜘蛛の巣のように、立ち入った人間を絡めとって動けなくする、そんな邪悪な恋のスタンドなのだ。
「仗助。もう来ないで」
わたしはあなたのことが好き。だれよりも好き。この部屋にあなたを呼んで、いつまでも一緒にいられたらどんなに幸せだろう。わたしだけに笑いかけてくれたら、どんなに満たされるだろう。
でも、そんな東方仗助はすでに東方仗助ではない。
そんなまがいものは、ほしくない。
『――そんな幸せ、悲しすぎるだろ』
都合のいい空想のなかの彼は、そう言って顔を歪めた。わたしのために、泣きそうな顔で笑う。
そんな彼はやはり、ヒーローだ。わたしの世界に色をつけてくれる唯一の存在。強く輝くダイヤモンド。
現実の彼は、真実を聞いてどんな顔をするだろうか。彼はきっと、本心を口にすることはないだろう。
きょうも、わたしは部屋のなかでドアを眺めて過ごす。
彼に来てほしくないと思いながらも、彼を待つ以外にすることはない。
帰る場所なんてどこにもない、行く場所もない。そんなわたしではあるけれど、待つものだけはある。
焦がれるものだけはある。
彼の輝きに手をのばしてみることだけが、いまのわたしを支えている唯一の――
そう考えていた、ちょうどそのとき。
扉が開かれた。
「よお。来るなって言われたけど、やっぱり放っておけねえから来ちゃったぜ」
シュークリームの箱を持って、小さい子どもみたいに笑う仗助に、わたしは泣きそうになりながら笑いかけた。
きょうも、あなたのことだけ考えてた。
そう言ったら、あなたはどう思う?
大きくなりすぎた恋情を抱えながら、シュークリームを頬張った。いつものアイスシューではなかった。カスタードとホイップが入り交じる味を舌のうえに載せて、「ああ、今は冬なんだ」とふと察した。あのシュークリーム店では、冬にはアイスシューを販売していない。この部屋には暦がないから、季節の移り変わりには疎いわたしだった。
「雪は、もう降った?」
「まだだな」
「風邪、ひかないようにね」
「ああ、サンキュ」
なんとなく、彼もわたしの気持ちに気づいているのかもしれないと思った。純朴な彼は、おそらく自分からはなにも言わないだろう。いつまでもこんなふたりでいられればいい、と願ってしまいそうになる。彼を閉じ込めたくなんかないし、この恋には実ってほしくない。ただの友だちのまま、いつまでも、そんなふたりのままでいたい。そんなこと無理だって、自分でもわかっているのに。
「仗助……」
「なにも言わなくていい。また、来るよ。なまえ」
彼のその言葉を、今度は否定せずに受け容れた。また来る。その言葉がどれほどの救いになることか。わたしは自分のスタンドに恐怖している。彼への恋は、ただの化けものになって、わたしとはべつの生命体みたいに蠢きだしている。もう、止められない。彼が好きだという気持ちは、彼を滅ぼすまで止まらないかもしれない。
でも、彼ならなんとかしてくれるかもしれない、とも思っている。東方仗助は、どうしようもないわたしの恋とスタンドに、ピリオドを打ってくれる……だって、彼はわたしのダイヤモンド。輝きを持たないわたしに、いつだって光を教えてくれるのだから。
シュークリームを食べ終えた彼は、冬の杜王町へと帰っていった。わたしは、この不毛な部屋から抜け出せない自分を恥じながら、目を閉じる。瞳の奥で白くてきれいなものが光りつづけているのが、たしかに見えた。
杜王町に白く降り積もる雪の奥で、白い宝石が誇らしげに笑っていた。
20170724