ルララルラ、シャラララ。どこで聞いたかわからない歌を口ずさんでいると、彼がやってきて顔をしかめる。もうちょっとでおとなになるのだから、歌なんてやめるべきだ。それも、なんの歌だかわからないような雑な歌は。でも、歌を歌っていると必ず彼がやってきてくれるから、ついつい歌ってしまう。彼はきちんとしていないことがすごく苦手で。わたしがだらしくなく過ごしていると、すぐにわたしのところへ来る。まるで、わたしの願望を具現化したゆめまぼろしみたいに。
彼は流れる水だった
「弟にはよく言って聞かせたものだ。成長しないやつに価値はないと」
「その理論でいくと、わたしにも価値はない?」
「ああ、ないな。だが見込みはある」
彼は相変わらず笑わない。こうしてわたしの部屋まで来ているというのに、にこりともしない。だったら来なければいいのに。でも彼は絶対に来る。寂しいのか、行き場所がないのか。彼の事情は何ひとつ知らないけれど、とにかく彼はよくここを訪れる。外に出て、杜王町の町並みを見ながら歩いてみても、彼と会ったことは一度もない。ほんとうに杜王町に住んでいるのか、あやしいものだ。たまに、彼は超常現象なのではないかと疑ってみることすらある。もちろん、そんなことありえないけれど。
「虹村さん」
「形兆でいい」
「じゃあ、形兆さん。弟さんって、どんな人?」
「ばかだな」
彼は一言で切って捨てた。でも、その一言のなかには複雑な愛着が滲んでいるような気がした。
「弟さんのこと、好きなんだ」
わたしの言葉に、彼は肯定も否定も返さなかった。
その反応こそが肯定の証だろうと、勝手に思う。
嫌いなものははっきりと嫌いと言う人だから。
「形兆さんは、どうしてここに来てくれるの?」
「だらしのないやつが許せないだけだ。ばかも許せないがな」
思わず笑みが漏れた。彼の好意は、実はわかりやすい。「好き」なんて微塵も言わないけれど、やっぱり彼はわたしを好きなんだと思う。勝手な思い込みかもしれない。わたしがそう思いたいだけかもしれない。でも、ほかにここへ来る理由なんてないはずだ。
「なまえ。なにか思い出したことはないか」
「思い出したこと?」
「初めて会った日のことだ」
「……どうしたの、急に」
わたしは無意識にこめかみをおさえる。頭痛がしたような気がした。彼と初めて会った日……記憶を思い返してみても、うまくつかみとれない。彼とこの部屋以外で会ったことなんてないのだから、きっとこの部屋で出会ったのだろうが……。
「思い出せない」
「そうか。では、違う話をしよう。奇妙なものを見たり聞いたりしていないか」
「ふしぎなもの? うーん、ないかも。強いて言うなら」
「強いて言うなら、なんだ?」
――強いて言うなら、あなたと話しているこの時間が、不可思議だ。
その言葉は言わずに飲み込む。なぜだろう、言ってはならないことのような気がした。
虹村形兆という彼には、どうもミステリアスなところがあると思う。
すべてを見通そうとすると、てのひらにすくった水のようにさらさらと流れ落ちていく。
水を見透かそうとすると、思考が乱れる。
初めて会った日を思い出せないのも、彼の謎めいた部分に関係があるのだろうか。
「ううん、なんでもない」
「妙なやつだな。そんな妙なところが、まるで――――みたいだ」
彼の言葉の一部がうまく聞き取れなかった。わたしは「そっか」とあいまいに笑った。虹村形兆という彼のすべてをすくいとろうとしたら、きっと彼は蒸発して消えてしまう。そんな気がしたから、聞き返そうとは思わなかった。
+++
ジョースケという名前の知り合いがいる。知り合いというか、近所のお兄ちゃんというレベルで、どんな漢字で表記する名前なのかすら知らない。彼は虹村形兆と同じく、わたしとたまに会話を交わす数少ない男性である。
とても気さくな彼のことを、わたしはほんとうの兄みたいに思っている。
「そんでさあ、オクヤスがその雪ですっ転んだわけ。あいつ、ああいう危なっかしいところがあるから困るんだよな。おれがいなかったら大惨事だっての」
「オクヤスさんというのは、ジョースケさんの友達ですか?」
「おお、そうよ。ほかにもコーイチとかミキタカとかいるんだけどな。みんないいやつらだぜ」
「いいなあ、友達が多くて」
ため息をつきながら彼にそう言った。わたしは、この町の生まれではない。杜王町に引っ越してきたのは数年前のことだ。友達と呼べる存在は何人かいるかもしれないけれど、やっぱりこの町にずっと住んでいる人たちとのあいだには一定の距離を感じてしまう。
「友達、いねえの?」
ざっくばらんな問いかけに思わず笑んでしまった。
こういうことを聞いてもイヤミっぽくならないのが、ジョースケのいいところだ。
「いますよ。でも、ほんとうに心を開ける友達はいないのかも。いるとすれば……」
虹村形兆の冷たい双眸が頭に浮かんで、すぐに消えた。彼は友達というには年が上すぎるように思う。たぶん、ジョースケよりも年上なのではないか。でも、恋人でもないし、単なる知り合いというには関係性が濃すぎる。やっぱり友達なのかも、と考え直して、ぽつりと声に出す。
「形兆さん」
「ケイチョウ?」
とジョースケは急に眉間にしわを寄せて苦しそうな顔をした。
「……知ってるんですか?」
「いや。知り合いによく似た名前のやつがいるんだけどよ。まあ、別人だろう……そのケイチョウって友達は、いまも杜王町にいるのか?」
「ええ、住んでいるところは知らないんですが、たぶん近所だと思います。きのうもお会いしました」
「じゃあ、やっぱり別人だ」
ジョースケは無理して笑ったような歪な表情をつくった。
「その、ジョースケさんの知っているケイチョウさんは、どこかへ引っ越されたのですか?」
「まあ、そんなところだ」
……どうもジョースケはなにかを隠しているような気がする。わたしはまた、水を手ですくいあげるビジョンを思い浮かべた。指のすきまからさらさらと透明な水が流れていく。引力にさからうことができなくて、水はどんどん落下する。ああ、わたしはきょうも彼をつかめない。虹村形兆を、理解できない。
「形兆さんは、静かに流れ落ちる水みたいな人なんです。わたし、いつもあの人を目で追っているのに、絶対に捉えきれなくて」
「なおさら、おれの知ってるケイチョウとは違うな。あいつは流れ落ちる水というよりも、激しくて気高い濁流みたいなやつだった」
「濁流ですか。ジョースケさんにそんな評価をされるなんて、どんな人なのか興味があります」
「はは。実際会ってみたら、ビビっちまうかもな」
――ああ、でも。
――濁流も、流水には違いないのか。
バグのように、そんな思考が滑り込む。
わたしはごまかすように笑って、ジョースケにこう言った。
「わたし、形兆さんのことを友達だと思っていて。その一方で、友達じゃなくなりたいとも思っているんです。あの人のこと、たぶん、好きなんだと思う」
「お、恋バナか。応援してやろうか?」
「ありがとうございます。ジョースケさんに応援してもらえるなら、がんばれる気がする」
今度彼が部屋に来たら、どんな話をしようかとわたしは考える。ジョースケの話をしてみようか。ジョースケというご近所さんの知り合いに、ケイチョウと言う人がいて。わたしの知る形兆とは違って、濁流のような男だという。それを聞いて、形兆はどんな顔をするだろうか。そのとき、わたしは彼の心をすくいとろうとするだろう。彼はやっぱり、指のすきまからするすると抜けて、まるで魂だけの存在みたいに、どこかへ行ってしまうだろう。それでも、わたしは彼を追いかけたいと思う。
彼に、大切なものをもらったような気がするのだ。いまのわたしの心の重大な部分を構成する、大切なもの。それはやっぱり、恋心なのだろうか。恋以外に、なにか彼から授かったものがあるような気がしてならないのだが、やっぱり彼という流水と同じく、さらさらと流れて、なにもつかめない。しかし、そのつかめないところに妙な快楽を感じて――わたしは部屋で彼の訪れるのを待つ。
流水。上から下へとただ落ちていくだけの、澄んだ水。わたしの心の濁りは、きっとその水が癒やしてくれる。
「なあ、なまえ。おれの人生はまだはじまってすらいないという気がするんだ。おれはこれから、どうすればいい? なまえのスタンドなら教えてくれるか?」
まだ彼は部屋へ来ていないのに、澄んだ氷のような声が、そんなことを告げたような気がした。
もしも彼が無限に流れゆく水であるならば、わたしはそれを受け止めて削られていく地面になりたい。
そしてふたりで川になり、どこまで流れて旅をする。
一緒に地の果てまで行けば、きっと彼が何者なのかわかる気がするから。
20170830