ダニエル・J・ダービーは、いつだって自由奔放で身勝手で最低な男だった。
 一度、彼の知りあいのホル・ホースという男が、わたしと彼の隠れ家に訪ねてきたことがある。ダニエルは不在で、わたしがホル・ホースを出迎えた。ホル・ホースは懇切丁寧に、「ダニエルという男は最低なギャンブラーなので近寄らないほうがいい」と説いた。あとから考えると、それはたぶん単なるナンパだった。仮に親身な忠告であるとするならば、ホル・ホースは何度でも来るのではないだろうか。案外義理堅いホル・ホースが、その一回だけであきらめたということは、やっぱりナンパだったのだと思う。
 ダニエルは、流れ者のホル・ホースに悪口を言われるほどにひどい男ではないのだけれど、それでもやっぱり最低な男には違いないのだった。

 どこがどう最低なのかというと、まずギャンブルで生計を立てているという部分が最低だ。社会性のかけらもあったものではない。さらに、イカサマで勝つことを当然の権利だと思っているところもひどいと思うし、女を騙して寝ることをジェントルにやってのけるところも、まったくもって非人道的だ。それでいて、女の側に不満を持たせずきれいに別れるのがうまい。弟のテレンスならば、刃傷沙汰に発展しそうな匂いのする人間関係を、ダニエルは熟練のパティシエがケーキを切り分けるみたいにスパスパ切っていく。後腐れのない関係しかつくらない。
 自分ひとりだけで生きていけると思い上がりながら、その思い上がりの無謀さゆえに女性を惹きつける。
 その姿が、最低なのだ。

なまえ。きみだって、最低な女には違いないだろう」

 いつだったか彼はベッドのなかで言った。

「わたしのどこが最低だと?」
「女を騙して寝るのが最低だというのならば、その騙しを見破ったうえで寝るきみはなんなんだ」
「……さあ。売女とでも呼びますか?」
「わたしは、売女でない女を売女と呼ぶほどに最低ではないよ」

 彼はそのとき幸せそうに笑っていたけど、わたしは最低な彼を愛していたから、最低ではない彼に不満を持ってしまった。
 彼はわたしのことが好きだったのではないかと思う。わたしも彼が好きだった。でも、わたしを愛している彼のことだけは、あまり好きになれなかった。結局のところ、彼がだれかを騙すのを見ているのが、いちばん好きだったから。
 たいていの女は、一度寝ただけで彼から離れていくし、たいていの男は、彼に騙された瞬間には死んでいたから、彼のとなりに残ったのはわたしだけ。
 わたしだけが、ダニエルと一緒にいられる。
 そんな傲慢な気持ちを持っていた。彼に負けず劣らず、自分勝手で傲慢。それが本来のわたしの姿だったのだと思う。
 彼はいつだってむき出しの自分を対戦相手に見せていたから、わたしもいつしか、ほんとうのわたしを彼に見せるようになってしまっていた。

「楽しい勝負がはじまりそうなんだよ、なまえ

 その日の朝、彼はそう言ってトランプをシャッフルした。ギャンブル用の新品のトランプではなくて、自室でイカサマの練習をするための古いトランプだ。なにかの験担ぎなのか、ずっと同じものを使っているせいで、かなりボロボロだった。

「勝つんでしょう?」
「ああ、当然勝つ。そのための仕込みはすでに済んでいる。今回はね――」

 彼はそこでバクチの種を説明しはじめたが、興味がなかったので聞かなかった。
 どうせ彼は勝つのだから、どうでもいいや。
 そんなふうに思っていたことを、わたしは後悔することとなる。
 このとき、彼の話をちゃんと聞いていれば。
 あるいは、『勝負』の場に同行していれば。
 あんなことにはならなかった。

「――というわけだ。猫を使ったイカサマ、新しいとは思わないかね?」
「ええ、いい趣向だと思う」

 そんなあなただから愛している。
 その一言を、わたしは言わなかった。
 言わなくても伝わると思った。

 彼がもう二度とわたしのところへ戻ってこないなんて、だれが思っただろう。
 ダニエル・J・ダービーと話したのはそれが最後だ。
 それからしばらくして、彼の弟だという人物がわたしのもとへやってきた。
 テレンスに会うのは、そのときが初めてだった。顔立ちはなんとなく似ているけれど、そのほかはなにも似ていない。
 弟とまったく似ていない彼の唯一無二の生き方に気づいて、ああ、やっぱりわたしは、そういう孤独な彼が好きだったのだ、と思った。

みょうじさん。兄は、もう二度とあなたのところへは戻りません」

 テレンスは冷えた声でこう言った。わたしのことになど微塵も興味がなさそうな彼は、どうやら伝えるべきことだけを伝えて、帰るつもりらしい。お茶を出そうとしたわたしを押しとどめるところからして、長居するつもりはなさそうだった。

「……死んだ、ということですか?」
「死んではいませんよ。あるいは、死んだほうがマシだったかもしれないが」

 面倒くさそうに顔の前で手を振る。その動作で、彼がわたしのことを疎んでいることがわかる。
 おそらくは、あとあとの面倒事を回避するためにここへ来たのだろう。
 ここで彼を帰すことは、ダニエルとの永遠の別れを意味する。
 そう気づいたわたしは、目の前の冷淡な人にすがらざるをえなかった。

「では、会わせてください。死んでいないのならば、会えるでしょう?」
「それだけは、だめだ」

 と彼は妙に強い口調で言った。

「うちの兄はね、ぶざまなところを身内に見られるのがいちばんきらいなんだ。あなたに今の姿を晒したと知ったら、舌をかんで死にかねない。だから、やめておいたほうがいい」

 急に、彼は饒舌になった。イライラしているような口調ではあったし、やっぱり早く帰りたいのだろう。でも、「うちの兄はね」というその口調には、兄への複雑な感情が隠れているような気がする。兄弟仲は悪かったのだろう。ダニエルは、どんな人間関係も、さっさと切り捨ててしまえる人だった。弟も例外ではないにちがいない。ひとりで家庭から離れていく兄と、それを忌避しながらも、その背を追うように育つ若い弟。ふたりの関係性を想像するのは容易い。だって、わたしも、すべてから簡単に離れていく彼のことを、ずっと目で追っていたから。

「そんなことを言われて、簡単に引き下がれると思いますか?」
「引き下がるとか、引き下がらないとか、そんな話ではないのですよ。みょうじさん。さきほどの話を聞きませんでしたか? 兄は、もう、二度と戻ってこない。そう言ったんですよ。あなたに意地悪がしたくて言っているわけではない。兄の恋人に意地悪をする理由がありますか? ないでしょう?」

 テレンスは理知的だった。理知的だからこそ、容赦がない。いっそ心地いいくらいに。
 この人が、二度と戻らないというのだ。その運命に抗うことはない……抗ってもしかたがない。
 不思議なことに、そんなふうな諦念が生まれはじめていた。
 そもそも、わたしはダニエルと一生一緒にいられるなんて思ってはいない。
 住む場所を決めずにさまよいつづけるギャンブラーは、居場所を決めていないからこそあんなにも自由奔放だった。わたしという居場所にも縛られてはならない。きっといつか目の前から消える。そういう体感が、常にあった。
 寂しいけれども、ここがもはや潮時。彼はきっと、負けた。
 負けた自分を、見られたくない。今のダニエルを包んでいるのはその感情だけなのだ。
 彼のプライドは一流だ。その一流のプライドが、やっぱりわたしを惹きつける。
 いつのまにか、彼に会いたいという気持ちよりも、彼を尊重したいという気持ちのほうが勝ってしまった。

「……わかりました。わざわざこんなところまで来てくれて、ありがとう。テレンスさん」

 聞き分けのよさに驚いたのか、テレンスは目を見開いた。
 そして、一呼吸置いてから、ぽつりとこう言った。

「……兄は、あんなふうになっても、あなたの名前を呼んでいた。正直、驚いたんですよ。女なんて、いつも一度寝るだけで捨ててしまう兄でしたからね。ひとりの女性にあんなに愛着を持つことがあるなんて、知りませんでしたよ」

 まあ、最初から兄のことなんて、なにも知りやしませんけれど――
 そう締めくくり、テレンスはわたしの部屋から出ていった。もう二度と戻ってはこないのだろう。彼は彼なりに、兄へ義理を尽くした。
 部屋に残されたわたしは、不思議と泣きはしなかった。まさか、こんな形でダニエルとの関係が終わるとは思わなかったけれど、さんざん人を殺してきた彼にふさわしい末路ではあった。勝ちつづけるギャンブルなんてありえない。勝ったぶんだけ、どこかで負けるのが賭け事のサイクルだ。彼はもうじゅうぶんに勝った。人生にも、勝負にも、恋にも。だから、最後に負けた。ただ、それだけなんだ。自分にそう言い聞かせてみると、案外すぐに納得してしまうことができた。

 彼が手習いに用いていたトランプだけが、わたしの部屋にある。今でも、たまに、それを使って彼の真似をしてみる。もちろん、鮮やかにカードを繰ることはできない。そんな自分に、すこしだけ安心する。ああ、わたしは彼のように勝ちつづけることはない。だから、最後に大きく負けることもない。同時に、彼という鮮烈な存在を忘れることは絶対にない。いろんな女性の上を気ままに通り過ぎていった彼が、最後にたどりついたのが平凡なわたしであったことを、誇りに思っている。

 彼はたしかに最低な男だった。その評価はずっと変わらない。でも、彼が聖人君子だったなら、たぶん好きにはならなかった。もう二度と会うことがないとしても、この恋に後悔はない。だって、最低な彼に恋したというのに、わたしにとっては最高の恋だったから。
20180220