「愛してるぜ、ギターよりも音楽よりも」
とささやきながらキスをして、音石明はにっと笑った。
「わたしも、大好き」
と返答したものの、心のどこかに、ひどく冷めたもうひとりの自分がいた。
だって……彼にはギターよりも好きなものなんて、自分自身しかないはずだから。
わたしが生まれて初めて受け取った婚約指輪は、盗品だった。しかも宝石部分はフェイクだ。
音石は盗品の指輪を平然と恋人に渡すようなやつだった。ひどい話だ。ただ、わたしは自分がもらったのが盗品だと知らされたあとでも、彼のことを嫌いにならなかった。驚きもしなかった。こいつはそういうやつだよねー、と納得したくらいだ。
盗品だというのにサイズは完全にぴったりで、センスもよかった。盗んだものでさえなければ、彼との結婚を即決していたかもしれない。わたしはたぶん、騙されているんだと思う。チョロい女と思われているんだろう。でも、それでもいいやと割り切れる程度には、音石という男のことを気に入っているし、もっと見ていたいと思っている。彼が本気になったときの、あの刃物のようなまなざしが忘れられない。
たぶん、彼のそういうところが好きだったのだと思う。
まっとうに働いて指輪を買おうとか、自分の食い扶持を削ってでも好きな女に尽くそうとか、そういうまともな発想の男でないからこそ、安心できた。
彼のそばにいれば、自分が聖人であるかのように錯覚することができる。だめな男を救済する聖女の気分になれる。
それは、だめな男そのものよりもずっとずっとだめなのかもしれない。だがそれゆえに、お似合いだったと思う。彼にこれ以上ふさわしい女はいないだろう。
「音石。あんたはいつまでもずっとそのままでいて」
「どういう意味だ?」
「ずるくて臆病で正直で、着のみ着のままの音石でいてほしいってこと」
彼は、心底バカにしたような顔で、しかし楽しげに笑った。
どんな愛をささやく彼よりも、その他人を見下した顔こそが彼だと思った。
彼がそうして隣で笑っているときだけ、わたしはほんとうのわたしになれる。
その先にあるのは永遠の愛ではないし、まかり間違っても結婚や出産ではない。
現在進行形の、破局だ。
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「飽きたわ。もうなんとも思ってねえ」
彼からそんな一言が飛び出したときも、かえってほっとしたくらいだった。あとから聞いた話では、彼はこのときすでに別の女とつきあっていたのだが、もうそんなことには興味がなかった。だって、彼と出会った瞬間に、こうなることくらいわかっていたから。
飽きた、と発音したときの彼の冷えた目は、ライブハウスでわたしと目を合わせる前の彼とそっくりそのまま同じもので、あのときの彼を紙に引き写してきたのではないかとすら思えた。きっと彼はこの顔で、幾人もの女に別れを告げてきたのだ。
女たちは怒っただろうか? 呆れただろうか?
……わたしは怒っても呆れてもいない。心はひどく凪いでいて、なんの感情もないみたいだ。からっぽのわたしには彼しか拠り所がなく、彼がなくてはわたしは人間ですらなかった。感情は、すべて彼の冷えた目に吸いこまれてかき消えていく。
彼に吸いまれていった感情たちは、まるで街中にはりめぐらされた電線で集められた電気のように、彼のギターへの情熱や、新しい彼女への愛の言葉に変換されていくのだろう。とても効率的で、彼のそういうところもやっぱり好きだ。無駄なエネルギーなんて使いはしない。
最初から二人は破局していた。彼はわかっているのだろうか? 今つきあっている女とも、つきあう前から終わっている。彼が彼である限り、絶対にそうなのだと。
「これからわたしが言うことは、聞き流してくれていいんだけど」
と言いながら、その先でなにをしゃべるかなんて考えていなかった。
完全なアドリブで言葉を紡いでいく。
「あんたは終わってるよ。わたしと出会う前からずっと終わってる。音石明はだれのことも好きじゃない、自分のことしか好きじゃない。そのうち刑務所かなんかで過ごすことになるかもしれないようなクズだ」
彼は一瞬だけ怒りを覚えたように眉間にシワを寄せたが、わたしの表情を見てその怒りを引っ込めたようだった。わたしは彼に怒っているわけじゃない。彼の悪口を言ってるわけじゃない。……ただ、ほんとうのことを言っただけだ。
「でも、わたしが好きだったのは、そういう終わってるクソ野郎の音石明だよ。そのことをちゃんとわかってるわたしに、もしも、また価値を感じることがあったら……」
その言葉を口にしたときには、実は、とても後悔した。
結局、なにも感じてない、なんの感情もないと言いながら……わたしは未練を感じていたのかもしれない。
「電話して。わたしには音石だけだから。刑務所のなかからでも、高跳びした海外からでも、なんでもいい」
「……変な女だな」
そんなこと言われたの、初めてだよ。
彼は苦笑いした。
「だってさ、振ったのは俺だよ? なのに、なんで……」
彼はくしゃっと、心を一旦丸めるみたいに人間らしく笑った。
そんな笑い方ができるなんて知らなかった。
他人を見下すみたいじゃなく、自分の情熱に浮かされるのでもなく。
心底おかしいとでも言いたいような顔で。
「なんで、俺のほうが負けたみてえな気持ちなんだよ」
「さぁ……知らない」
わたしたちの関係は、その日、一度終わった。ここで終わっていれば、つまらない青春の1ページとなっただろう。しかし、なぜだかそうはならなかった。音石という喜劇めいた男の愚かさが、このような平凡な結末を許さなかったのかもしれない。
というわけで、その二週間後、ほんとうに刑務所から電話があった。囚人が電話をかけるなどという話は聞いたことがないので、またなにかイカサマをやったのだろう。
このことは、彼と出会って以来、一番の驚きだったかもしれない。妙に低い姿勢で必死に謝る彼の声を、わたしは一生忘れないだろう。刑務所の面会には当然、あの指輪をつけていった。まったく似合わない一色だけの衣装に身を包んだ彼は、最初にわたしの左手の薬指に目を留め、
「……バカだな、なまえ」
と言って、またあのくしゃっとした顔で笑った。
音石明はいつのまにか、つまらない青春の1ページではなく、まったく別のなにかへと姿を変えたのだった。
からっぽの指輪
20250717