永遠の少年
その日、学校の廊下を歩いていたわたしを、軽薄な雰囲気の男子が呼び止めて、こう言った。
「おまえ、人殺しか?」
この第一声は、考えうる限り最悪のものだった。なんの罪も犯していない平凡な一高校生としては、かなり心外な決めつけである。
「……新手のいじめ?」
とわたしが彼に問い返したのは、彼の問いがあまりに不躾だったからだ。
「いやあ、目つきとか、ちょっとそれっぽいと思ってさ。みょうじってそういう顔してるじゃん?」
彼は悪びれずに言った。そんな彼をあらためて眺めてみると、知った顔だ。あまり会話したことはないが、たしか同じクラスの男子だったはずだ。名前は……そう、霧島――霧島純平だ。高遠遙一という名の、静かでミステリアスな男子の隣で、いつもギャーギャーと元気に騒ぎ立てているのが、霧島だった。やかましいのが苦手なわたしは、あまり彼には近づかないようにしていた。
ただ、霧島のことはそこまで嫌いではなかった。むしろ、その隣でいつも静かに物思いにふけっている高遠こそ、わたしのもっとも苦手とする人物である。高遠は、自分の思っていることをあまり口に出さないタイプの少年だ。高遠の目はいつも、わたしのような凡庸な人物には見えない、はるか遠くの真理を見つめているような気がして……とても、怖かった。
だから、「人殺しか」と霧島に問いかけられたわたしは、内心で「高遠でなくてよかった」と思っていた。もしも高遠に「人殺しか」と問われたならば、その場で激昂していたと思う。あの、人を人と思わないような冷たい目の少年に、人殺し扱いなんてされたくない――たっぷりの皮肉を込めて、「あなたこそ、人殺しみたいな目をしてるね」とでも返答してしまうかもしれない。話したこともないのに、どうしてここまで高遠を苦手としているのかは、自分でもよくわからない。
「いきなりごめんな。あんまり気にしないでくれ」
霧島はにこにこしながら謝った。こうして謝られると、怒る気も起きない。霧島には、高遠には決してない愛嬌があった。笑いながら謝られると、許さなくてはいけないような気持ちになってしまう。それが霧島の長所なのだろう。
++
翌日も、霧島はわたしに声をかけてきた。
霧島の笑顔はいつだって光り輝いていて、わたしとは対照的だった。
「なあ、みょうじ。相談したいことがあるんだけど」
「高遠くんにでも相談したら?」
とわたしは言った。べつに、きのう嫌なことを言われたから、意地で拒絶したというわけではない。霧島から相談を受けるほど、親しい間柄になった記憶はないから、それとなく断ってみただけだ。
「あいつには言えねえ」
霧島はめずらしく暗い顔をした。おや?と思う。いつだって明るくて、ムードメーカーのような存在の霧島が、どうしてこのような顔をするのだろう。どす黒い興味がわきあがってきて、わたしは思わず、彼の相談をうけると言ってしまった。
ふたりで、校舎の裏へと移動して、切り株の上に座った。切り株はちょうど椅子のような形になっていた。
「あのさあ。俺、マジックが好きなんだよ」
と彼は話しだす。
「でも、部活でやるマジックだけじゃ物足りなくてさ……ちょっと危ないやつに挑戦してみようと思うんだよね」
「危ないやつって、炎のなかから生還したりとか、水中で縄抜けをしたりとか……そういう?」
高校生というものは、いつだって無謀である。命を捨ててもかまわないというわけでもなかろうに、危険な道へ身を投じようとする。霧島はへらへら笑って答えた。
「そんなつまんねーやつじゃねえよ。もっと心躍るやつ」
具体的なマジックの内容は言いたくないらしい。まあ、それはそうか。マジシャンは種を見破られることをもっとも恐れる。種を明かさずに始めたほうが、見る側の驚きも大きくなるだろう。上演の内容だって、言わないほうが驚きが増すはずだ。
「俺は、そのマジックをやるために生まれてきた。やらなければ、俺は俺じゃなくなるんだ。でも、最悪、俺は死ぬかもしれない」
「そんなに危ないこと、ほんとうにやらなくちゃいけないの?」
わたしはマジック部員ではないから、そう問わずにはいられなかった。
「やらなくちゃだめなんだよ。それをやらないってことは、死んでるのと同じなんだわ、俺にとっては」
そこまで言うのなら、やればいいではないか。相談がしたいとは言っていたが、彼のなかではとっくに結論が出ているのだろう。危険なマジックに身を投じることこそが、自分のほんとうにやるべきことだと……。
切り株から腰を浮かして立ちあがりつつ、霧島は晴れやかな顔で言った。
「みょうじは、そのとっておきのマジックの上演に来てほしいって言ったら、来てくれる?」
「ううん。わたしは、行かないよ。正直、マジックは見てみたいけど……霧島くんが死ぬところは、見たくないから」
「そっか。残念。おまえは、俺と似ているような気がしてたんだけどな」
彼はほんとうに残念そうだった。ほんとうは、相談がしたいなんていうのは、ウソなのかもしれない。彼は、一世一代のマジックショーの観客として、わたしを呼びたかっただけ。そうなのだとしたら、この心底残念そうな顔にも説明がつく。なぜ、たいして親しくもないわたしなんかを呼びつけようと思ったのか……それは謎だけれど。
「じゃ、もう会うことないかもしれないけど、元気でな」
「なにそれ。また、学校で会えるでしょ? 同じクラスなんだから」
「どーかな。世の中、なにが起こるかわからないもんだぜ」
霧島は予言者だったのかもしれない。
その翌日、わたしは高熱を出して、学校を休んだ。熱はしばらく下がらず、一週間も家で寝込むことになる。まだ春だというのに、ひどい風邪を引いたようだった。
そして、そのあいだに、秀央高校では三人の生徒が殺された。
そのうちの一名は、霧島純平――彼は首を斬られ、生首を晒されて、死体を火で焼かれていたという。彼の首は発見されず、犯人もいまだ不明。彼がわたしと同じクラスで授業をうけることは、二度となかった。
++
熱が下がり、登校することができたわたしは、放課後、まず高遠に会いに行った。高遠は音楽室でピアノを弾いていた。曲はベートーヴェンのピアノソナタ第14番、「月光」――。
「月光」を聞き終えたわたしは、あれだけ苦手だった高遠に対して、事件についての説明を要求してしまった。霧島ともっとも親しそうだったし、霧島と同じマジック部であった高遠ならば、なにか知っていると思ったからだ。高遠は嫌な顔ひとつせずに、事件の概要を話してくれた。と言っても、高遠は被害者たちの殺された状況を淡々と説明しただけで、犯人が誰なのか、被害者たちはどうやって殺されたのかなど、不確定な情報を語ることはなかった。
心のどこかで、高遠は真相を話してくれるのではないかという気がしていたのだが……そんなことはなかった。
「ほんとうに、霧島くんは死んじゃったの? ウソじゃないの?」
いまだに信じられなくて、わたしは高遠を問い詰めてしまった。彼はいつもの冷たい目でこちらを見、「あいつは死んだよ」と言った。まるで彼自身が殺したかのような、重苦しい声だった。
「霧島くんがさ、言ってたんだ。もう会うことはないかもしれないって。知ってたのかな。自分が犯人に狙われてるってこと」
「あいつ、そんなこと言ってたのか」
高遠はめずらしく驚いたような口調で言う。そして、早口でこう問いかけてきた。
「ほかには、なにか言ってた?」
「一世一代のマジックをやりたいって。でも、危険だから死ぬかもしれないって言ってた。あと、わたしのことを『人殺しか?』って疑ってたこともあったよ」
霧島との思い出を忘れたくなくて、わたしは霧島の言葉をどんどん高遠の前にさらしていった。最後の方は涙声になってしまって、ぶざまにも、高遠の前で泣き崩れてしまった。
霧島とは、二日間しか言葉をかわさなかったはずなのに。
なぜだか、わたしは彼に惹かれてしまっていた。
彼が死んでから、それに気づいた。
高遠は、泣いているわたしを黙って見ているだけだった。それも、無表情に。ハンカチくらいさしだしてくれてもいいのに……やっぱり、嫌なやつだ。好きには、なれそうにない。霧島なら、きっと自分のハンカチを出してくれるだろう。明るい声で慰めてくれるだろう。そして、軽いマジックでもやって、わたしを笑顔にしてくれる――
空想のなかの霧島は優しかった。彼は、わたしに嫌な面を見せる前に死んでしまった。わたしの心のなかではずっと、優しくて気遣いのできる少年として生きていくのだろう。それがとても悲しいことに思える。優しくて気遣いのできるだけの、明るい少年。そんな子どもが、この世にいるはずがないのに。
「霧島が、きみに『人殺しか』って言ったのか?」
と、わたしが泣き止むのを待ってから、高遠が訊いた。
「そうだよ。いきなりそんなこと訊くなんて、超失礼だよね?」
「あいつはそういうやつなんだよ。僕も人殺し扱いされたからね」
「え、高遠くんも?」
意外だった。たしかに、高遠は暗い目をした陰気な少年ではあるが、霧島が自分の友人にそんなことを言うなんて……。でも、わたしにも同じことを言っていたのだし、霧島なりの、親しい人への挨拶のようなものなのだろうか。
「気をつけたほうがいい」
と最後に高遠は言った。
「なにに?」
「霧島の予言は当たる。あいつの他人を見る目は確かなんだ」
「わたしは、人殺しになるかもしれないってこと?」
笑い飛ばそうとしたけれど、できなかった。だって、霧島は予言通りに死んでしまったのだから。
「でも……」
わたしは高遠になにか言いかけて、やっぱり言うのをやめた。
「なに?」
「ううん。なんでもない。高遠くん、きょうはありがとう」
「礼を言われるようなことはしていないよ、みょうじさん」
「うん、そうだね。でも、ありがと」
高遠は音楽室を出ていった。ピアノの前に、わたしだけが残される。
さきほど言いかけた言葉を、あらためて、口に出してみる。
「でも、霧島くんの予言が当たるなら、わたしは嬉しいかもしれない」
霧島純平という少年が、唯一わたしに残してくれたものが、あの日にかわした他愛のない会話だった。
どんな形であれ、彼の予言が当たることを期待せずにはいられない。
もし彼の予言が当たってくれたならば、わたしと彼の会話には、少なからぬ意味があったということになるのだから。
もう会えない少年に、心のなかでわたしは問いかけてみた。
「わたしは、ほんとうに人殺しになるのかな? 霧島くん……」
永遠の少年は、答えないまま、いたずらで罠をしかけた子どものようにニカッと笑った。
20170118