奈落の少年
図書館の『社会病理』の棚の前で、ぼんやりと本の背を見ていた。暇つぶしに図書館へやってくると、いつもなぜかこの棚の前で立ち止まってしまう。殺人鬼に関する本、売春に関する本、迷宮入り事件に関する本などなど……正直、気が滅入るばかりなのに、ついつい引き寄せられてしまうのは、なぜだろう。
「怖いもの見たさって、あるよなあ」
背後で急に少年の声がした。
驚いて振り向くと、軽薄そうな茶髪の男の子がいた。知り合いではない。
目が合った瞬間、妙に冷たい空気が肌を刺した。
冷房の効きすぎだろうか?
外は猛暑だ。普段は『税金の無駄』などというクレームに備えているであろう図書館といえど、冷房はかなり強めにかけているようだった。
「お姉さん、いつもここらへんにいるよね。犯罪、興味ある?」
犯罪に興味がある。
そう言ってしまうと、とても背徳的で、人としてだめな感じがする。
でも。
この場所にいるということは、そういうことなんだろう。
「正直で非常によろしい。いやー、人間、刺激がないと生きていけないからね。殺人とか強姦とか、そういうものはもっとも単純でわかりやすい刺激だよねー。だれだって惹かれるに決まってる」
彼の声は図書館のなかによく響く。声を潜める様子もない。周囲から迷惑がられているのではないかと、きょろきょろと見回してみるが、気にされてはいないようだ。
彼は両手を広げて、「大丈夫だ」とでも言いたげなジェスチャーをしてみせた。
「いい遊びを教えてあげるよ。おれのレクチャーは完璧だから、お姉さんに最高の刺激を与えてやるって約束できる」
なんだそれは、セクハラか?
と思ったが、そんな意味ではないことは重々承知だ。
彼の言う刺激とは、恋愛とかセックスとかそういうものではないのだろう。
もっと、凶悪ななにかだ。
「『高遠遙一』って知ってる?」
……知っている。『地獄の傀儡師』だったか。
数年前に凶悪犯罪で逮捕されたのち、脱獄して余罪を重ねているという、稀代の殺人鬼だ。
指名手配中のようだが、多くの指名手配犯がそうであるように、たいていの人間は彼の顔なんか覚えちゃいない。
正直、もう話題にすら上がらないし、顔どころか名前を覚えている人間も少ないと思う。
世間は、犯罪のひとつひとつには厳しいが、時間が経つにつれてすべてを忘れる。
そういうものだ。
「いいねいいね。そういうノリ、好きだよオレは」
少年はけらけらと笑った。
「オレはあいつの知り合いなんだけどさ、あいつはよくやってると思うよ、うん」
なぜ、大量殺人犯に対してそこまで上から目線なのだろう、この少年は……。
「上から目線にもなるさ。だって、あいつを仕立てたのはオレなんだぜ?」
なにを言っているのだか。
高遠はたしか二十代後半くらいの年齢だったはずで、目の前の彼はどう見ても高校生くらいだ。
『仕立てた』というのがどんな意味なんだとしても、不自然な年齢差だ。
「世間はすべて忘れたって言ってたよね。でも、お姉さんはあいつの名前を覚えている。それって、興味があるからだよね」
べつに、高遠に興味があるわけじゃない。
わたしは、ここ数年間に起きた殺人事件については、調べられる限り調べているし、犯人の名前のみならず、被害者の名前も覚えている。そのなかの一つが高遠の事件であるというだけだ。
世間が忘れても、わたしは忘れない。
少年は、『社会病理』の棚の本のタイトルをトントンと指で示した。
そこには、『殺人鬼はあなたのとなりにいる』と書かれていた。
「忘れないのは、いずれその歴史に名前を刻むため?」
……そんな大それたことを考えていたつもりはなかった。
しかし、この少年の声は脳に直接響いてくる。不思議な説得力がある。
わたしは、犯罪というものに対して、異様なほどに執着している。
事件について集められる情報をすべて集めて……それでいて探偵の真似事をするわけでもなく、ただ事件の詳細についてずっと考えている。
なぜだ?
「わかんないんだ?」
……わたしはなぜそんな行動に出ているんだろう。
本棚に並ぶいかがわしい本の背を眺めてみたけれど、答えは出なかった。急に問い詰められたせいで、心に焦りが生まれ、心臓がバクバクしてくる。
「じゃ、明日またここに来てよ。待ってるから」
彼の有無を言わせない調子に、ついうなずいてしまった。
+++
一日寝かせたら答えが出るかも……というのは、その場の雰囲気に流され、正常な判断力を失ったときの気の迷いだった。
彼がいなくなって、ようやく冷静に考えることができた。
ひとつひとつの事実をきちんと検証すれば、すぐにわかる話。
『社会病理』。
脳内に形成された殺人鬼名鑑。
高遠遙一を仕立てたという少年の幻影。
答えは簡単。
わたしは、人殺しになりたいんだ。
殺人鬼名鑑に次に載るのは、きっとわたしの名前なのだ。
彼に会うまで、気づかなかったけれど。
翌日、図書館には相変わらずあの少年がいた。きのうとまったく変わらず、チェシャ猫みたいに笑っている。
「よ、お姉さん。きょうもいい面構えしてるね」
彼はわたしの出した答えを聞かなかった。聞かなくてもわかると言いたげだ。
少年の目が、興味深そうにこちらを見つめている。
おもしろいおもちゃを見つけたネコのような瞳だった。
「ね、よく見て。なにか気づかない?」
このとき、わたしはようやく彼の全身を眺め、そしてハッとした。
……彼の背後にある本棚が、彼の体を通して、はっきりと見える。
本のタイトルまで、詳細に読める。
彼の体は透明だった。
今まで、会話に夢中で気がつかなかった。大きな声で異様な内容をしゃべっていても、だれも注意しに来ないはずだ。
これは、幻覚じゃないか。
「お姉さん、お名前は?」
幻覚に名前を問われて、わたしは正直に名前を言った。きのうからずっと、熱に浮かされているような気がした。
こんな幻を見るのは、暑いからだろうか?
猛暑がつづく日々に、脳をやられたか?
精神の異常ならば、治さなくてはならない。というよりも、猛暑が終われば勝手に治るかもしれない。その可能性のほうが高そうだ。でも、わたしはこの少年の幻想を、妙にいとおしく思っている。
消えてほしくない。
高遠遙一に道を示したというのが真実ならば、……わたしにも道を示してほしい。
高遠は人を殺してもなお娑婆へと戻り、今も新たな獲物を狙っているといわれている。ある意味ではカリスマ。理想的殺人鬼だ。
わたしもそうなりたい……と思うのは、異常だろうか?
彼はいつのまにか手に持っていたバタフライナイフのようなものをくるくるまわした。
その刃から、目が離せない。
この少年は、とてもうつくしい。そんな思考がふと、すべりこんでくる。わたしが普通に生きるために捨ててきたものを、恥ずかしげもなく他人に晒す。堂々とシニカルに笑う。とても魅力的でドキドキする――まるで殺人鬼の本を読んでいるときみたい。
「なまえ。いい名前だね。その名前が、新聞の大見出しで載ることを、あるいは載らないことを、期待してるよ」
少年の形をした幻覚は、へらへらと笑い、音もなくわたしの背後に移動して、ぽんと背を押した。
ごく軽い力だったのに、わたしは前のめりになりながら一歩を踏み出す。
とん、と。
足音が図書館内に大きく響いた気がした。
この『社会病理』の本棚は、きっと正常と異常の境界線だったのだ。
わたしは今まで、知らず知らずのうちに崖っぷちに立ってふらふらしていた。
少年の手は、わたしを崖から突き落とす。
勢いよく奈落へと落ちていく途中で、さかさまになった彼が悪魔のようににやにやと笑うのを見た。
「じゃ、頑張ってみますか。オレも一緒に手伝うからさ。なまえ」
そんな声が、遠くの方から聞こえてきた。
わたしはそのときから、奈落の底で彼と生きていくことになったのだ。困ったことに、彼には奈落がよく似合う。最初から、ここで生まれたのかもしれない。
そんな彼に似合いのわたしになれたらいい。
バグめいた夢が、泡沫のように浮かんで、そっと優しく消えた。
20180817