めずらしく叶親から電話がかかってきたその日、わたしは家でゴロゴロしながら、ビデオ録画した『るろうに剣心』を見、ついでに天翔龍閃の練習をしていた。どうも最近、塩田たちの幼稚さが自分にうつってきている気がする。よくない傾向だった。
天翔龍閃については置いておこう。叶親は極端にシャイなので、わたしにチョクで電話してくることはほとんどない。おそらく緊急の用事なのだろうと思われた。
「あのさ……ケツが痛いんだよ……」
開口一番、叶親は深刻な口調で言った。耳元でそんなことを言われても、どう反応したらいいのかまったくわからない。なぜわたしにそんな電話をかけてくるのかもまったく理解できない。新手のセクハラだろうか。
「痔?」
こんな単語は言いたくないなと思いつつ、そう問いかけてみた。
「そうかもな……でも、おかしくないか? 奈良の家で寝てて、朝になったら尻が痛くなってたんだよ。痔って、そんなタイミングで発生するもんかな」
「……………」
『奈良の家で寝てて』という部分だけで、なにが起きたのか察してしまった。哀れな叶親は、越えてはいけないラインを越えてしまったらしい。しかも、寝ているあいだに。本人も気づかないうちに。よほどぐっすり寝ていたのだろう。ていうか起きろよ。
塩田と奈良というバカ二名(と叶親)は、あからさまに越えてはいけないようなラインをやすやすと踏み越えて、当然のように犯罪行為におよぶことが多いとは思っていた。しかし、まさか男子を寝ているあいだに犯してしまうほどに飢えていたとは思わなかった。正直、ドン引きである。金輪際、会話すらしたくないレベルだ。
「まあ、叶親、顔はいいからね……」
「ん? なんだ? 褒め言葉か?」
褒められ慣れていない叶親は、耳ざとく褒め言葉を拾いあげ、嬉しそうな声になった。今はそんなことで嬉しがっている場合じゃない、きみのケツは大変なことになってしまったし、もうお嫁には行けないかもしれないんだぞ、と言いたい。言いたくてうずうずするが、それを言ってもわたしにメリットはひとつもない。叶親の今後のためにも、黙っておいてやるのが武士の情けではないだろうか。世の中には、知らないほうがいいこともあるのだ。
叶親は状況に流されやすいタイプだ。おまけに女装好きのケがある。自分がもう処女ではないなんて気付こうものなら、女性に興味がなくなって、向こうの世界へ行ってしまうかもしれない。それは困る。
「ね、叶親。そのことは一旦置いておいて、というかもう永久に置いといて、別のことを考えようよ。世界平和のためになにをすべきかとかさ」
「みょうじ 、なんか隠してないか」
強引に話題転換を図ってみたところ、逆に怪しまれた。ちょっと焦りすぎたか。
「なにも隠してない。もう切っていい?」
「待ってくれ。塩田にもよそよそしい感じで電話切られちゃったんだよ。きみたちの態度はかなり似ている。なにか隠しているだろ」
心臓がバクバクしてきた。塩田も、こんなふうに心臓がバクバクして電話を切ってしまったに違いない。
「やだな。わたしが大好きな叶親に隠しごとするわけないじゃん」
『大好きな』という部分を強調して言ってみた。ちょっとあざとすぎたか、逆に怪しすぎたか、と危惧したが、
「……………ふへへ」
だらしなさすぎる笑い声が返された。ダメだ。この男、『大好き』という一言で意識が別方向へ飛んでいってしまっている。性欲に忠実な童貞男子は、一度にひとつのことしか考えられないのだ。そんなことだから、いつも塩田にいいように使われるんじゃなかろうか。
叶親浩司。聡明なようでいて、単純な男だった。そういうところが、わたしにしてみれば魅力的なのだが……きょうに限っては哀れでならない。
「あのさ。叶親の尻が痛い理由はまったく知らないし、尻だけに知りようもないんだけど」
「急にうまいこと言うなよ、不気味だな」
そのツッコミは無視することにした。
「ひとつだけ忠告しておくと、もう奈良の家に泊まるのはやめたほうがいい。あと念のため、塩田の家もやめたほうがいいと思うな」
「お、おう。どうしてだかわからないが、みょうじ が言うなら、そうするよ」
彼の素直さには目をみはるものがある。塩田がつけこみたくなるのも、もっともかもしれない。
「ありがとな、みょうじ」
そんな素直な声で礼を言われると、こちらの罪悪感のダムは決壊寸前になってしまう。
あのなあ、叶親。わたしに感謝しないでくれ。わたしはきみのケツを守れなかったんだよ。それだけならばともかく、今、ちょっと面倒に感じて、雑にごまかして電話を切ろうとすらしている。わたしには、きみから優しい言葉を受ける資格なんてない。
さすがに堪えきれなくなってきて、心が哀れみでいっぱいになってきた。叶親も黙っていたので、沈黙に乗じて、わたしは電話を切ってしまった。電話の向こうで、悲しげにうつむく叶親の姿が見えるようだ。
ごめん、叶親。
今度会ったときにソフトクリームを奢るから、許してくれ。
「というか、この件に関しては、わたしが罪の意識を感じる必要はない気がするんだけど……」
殴られるべきは奈良である。さきほどの話から察するに、塩田も関わっているのではないかと思われるが、たぶん根源的には奈良のせいである。この世の悪いことの大半は奈良によって引き起こされる。今、そう決めた。
――ありがとな、みょうじ。
電話はもう切ったはずなのに、不器用な叶親の声が、頭のなかをぐるぐるまわっていた。彼の礼の言葉はいつも、罪悪感が邪魔をして、うまく受け取れない。かわいそうな叶親。どうして、あのような悪魔たちと同じ部活に入ってしまったのだろう。剣道部で、いつまでも愚直に剣道を愛していれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
しかし一方でわたしは、叶親が自分をまっすぐに慕ってくれる、この状況に酔いつつある。叶親が気の毒であればあるほど、彼のことが愛おしい。不幸のどん底に落ちれば落ちるほど、叶親はわたしを求めるだろう。砂漠でオアシスを求める旅人のごとく、わたしに向かって突進してくるだろう。そんな瞬間に昂ぶりを覚えてしまうあたり、わたしも塩田や奈良と同じく、思春期の情欲に振りまわされているだけなのかもしれない。
塩田や奈良が無自覚なサディスティックさで叶親をボロボロにしていくように、わたしも叶親からなにもかも搾りとろうとしている。たぶん、出会ったときからずっと。
翌日、叶親はクラスでわたしの顔を見るなり、朗らかに笑った。
なにごともなかったかのような笑顔だったので、わたしもつい、笑い返してしまった。
今までにないほど軽やかに笑いつつ、叶親は言った。
「俺、奈良に犯されちゃったかもしれない。でも、もうそのことはどうでもいいんだ。みょうじがいてくれるからさ」
その意味を理解したとき、急激に周囲の空気が冷えた。
彼の言葉は、わたしの耳元でくるくると螺旋を描いて、その場で溶けて消えていった。とても、そのまま受け取る気にはなれない。『犯された』という邪悪な単語も、『どうでもいい』という投げやりな叫びも。
そんなものは受け取りたくない。彼がそうやって周囲の現実を軽く扱っていくから、彼を取り巻くサディストはエスカレートしていくのだ。塩田も、奈良も、わたしも……止まれなくなる。
「どんな叶親でも嫌いにならないよ、わたしは」
その一言だけ強引に絞り出して、自分の心も、ここで一緒に溶かしてしまおうと思った。そうすれば、思春期特有のずるさに蓋をできるような気がした。しかし、それを口に出した途端、自分も奈良と同じ邪悪だったと思わされた。
ケツの件についての隠しごとに対して罪悪感を持っていたのではないのだと、そのときにようやく気づいた。
わたしは、叶親がわたしを好いていてくれることそのものに、いつだって罪の意識を持ちつづけている。ただ、それだけだった。今まで、そのことに気づこうとしていなかっただけ。目をそらしていただけ。
――塩田、それに奈良。あんたたちのせいで、気づきたくないことに気づいちゃったよ。
心中でぼやきながら、放課後に叶親をうまく誘い出す方法について考えていた。罪の意識を自覚してもなお、止まることができない。むしろ走りつづけて加速していく。止まることができないなんてものじゃない、もはや止まってはいけないのだ。彼のためにも、わたし自身のためにも。
なぜなら、彼を乗せて走り出してしまったそれが、わたしにとって唯一の恋だったから。
この恋を捨ててしまったら、きっとなにもかも壊れてしまう。それだけは避けなければ。
わたしは暴走特急
20161031
男子も女子も、みんなちょっとずつ小狡い世界観が好きなのです。
叶親も夢主もそれぞれに自己中な感じが出したかった。