バスが来るのを待ちながら、トラックを見ていた。グルグルグルグルと、駅前ロータリーを何度もまわっている。パチンコ屋のラッピングトラックのようだ。そんなに何回もロータリーをまわる仕事、さぞむなしいだろう。池袋とか新宿あたりを走っている大型のラッピングトラックならばいざしらず、誰もいない田舎の、めちゃくちゃ狭い駅前ロータリーなんて、何回まわったってしょうがないというものだろう。実際、わたし以外、誰も見ていない。
 ガラ空きのバスに乗り、窓の外を見ると、トラックはまだそこにいた。ノロノロと、迷惑な速度でひたすらにまわる。えらく面倒そうな仕事だと思った。だいたい、他の車の邪魔である。他の車なんていないけど。
 そのとき、なぜか彼のことを思い出した。
 いつだってマイペースな速度で、迷惑なことばかりしている人たちのなかで、困ったように佇んでいた彼。
 叶親浩司という彼のことを。

 その数日後。同じ駅前ロータリーで、薄ぼんやりと佇んでいる男がいた。ちょうど、いつも乗っているバスのそば。わたしと同い年くらいだろうか。どこかで見たような顔だ。間の抜けた顔のわりに、着ているのはカッチリとしたスーツ。仕事帰りなのかもしれない。
 バスに乗ろうと彼のそばへ近づいていくと、目が合った。見覚えのある目だった。切れ長なのにどこかぼんやりしているそれは……。
「叶親じゃん」
 もう十年近く見かけていなかったので、目を見るまで気づかなかった。
「……みょうじ
 なんだか気まずそうに名前を呼ばれた。まあ、当然か。あれだけ親しく付き合っていたのに、卒業してからすっかり縁が切れていたのだから。高校の切れ目が縁の切れ目とばかりに、まったく会わなくなり、そのままおとなになってしまった。
「久しぶりだね」
「うん」
「元気してる?」
「うん」
 わたしが矢継ぎ早に無難な質問を浴びせていくなか、彼は困ったようにうつむいていた。あー、気まずい。
 しょうがないので、ちょっと別方向から切り込むことにした。
「いやー、数日前のことなんだけどさ。ここのロータリーで、ずーっとグルグルまわってるトラックがいてさ。しかも超低速。あの仕事めちゃくちゃ大変そうじゃない? こんなクソさびれたロータリーなんか、まわったって仕方ないっての。めちゃくちゃウケるっすわ」
 それを聞いて、小さい声で叶親がこう言った。
「ごめん、それ、俺」
 空気が凍りついた。
「マジ? だって今、スーツ着てるじゃん。トラックでグルグルするだけならスーツ着る必要なくない?」
「あの日は友だちに代理頼まれてさ。しょうがないからグルグルやってたわけ」
「……叶親」
「なに?」
「ゴメン」
 お辞儀の角度が直角を通り越し、100度くらいになりそうな気持ちで頭を下げた。まさか、叶親と再会して、最初にすることが平謝りになるとは思わなかった。
「いや、別にいいけど。……みょうじがいるの気づけたし」
「なにか言った?」
「別に」
 ほんとうは彼がなんと言ったのか気づいていたのに、気づかないふりをしなければいけない気がして、ついしらばっくれてしまった。彼と話すと、いつだってこんなことばかりだ。お互いがお互いの本心に蓋をして、はぐらかして。音信不通になったのも、このコミュニケーションが原因に違いなかった。
 ふふ、とわたしは笑った。彼が昔とあまり変わっていないことが伝わってきて、ちょっと気持ちに余裕が出てきたのかもしれない。
「叶親、まだ童貞?」
「ど」
「ど?」
 そこで二分間ほど、彼が目を白黒させた。その反応だけで答えがわかってしまい、いたたまれない気持ちになる。
 叶親、顔に出すぎ。
「童貞じゃない」
「嘘つくなよ童貞。バレバレなんだよ」
「嘘じゃねーし」
「一回も使われてない黒光りするマシンガン、見せてみろよ童貞」
 つい、高校時代と同じ感覚で茶化してしまう。
 叶親が怒りと恥ずかしさでぷるぷる震えだしたところで、わたしは昔を思い出してにこにこ笑った。
 叶親は、懐かしい感じにブチギレる。
「うるっせーんだよ! 俺の黒光りする最高の暗器が未使用なのは、きみのせいだろうが! やらせてくれなかったくせに! 死ねばか!」
「あーあー、きこえなーい」
「きーさーまー!」
 そうそう、このノリだ。叶親といると気分がいい。シモネタもゲスネタも、犯罪めいたことも、なんでも言えてしまう。軽口の応酬だけで生きていけそうに思ってしまう。めちゃくちゃ楽しい。
 でも、だからこそセックスだけはしたくなかったのだ。そう言ったら、彼は怒るだろうか。
 たぶん、彼もそのことはわかっていたと思う。
 ふたりとも、やるために付き合っていたはずなのに、
 やってしまったら、すべて終わるような気がしていた。
「高校生ってのはなあ、自分の彼女といつかやれるという希望だけで、つらくても生きてけるもんなんだぜ? それをさあ、みょうじは踏みにじったんだよ……俺の最後の希望をさあ……」
 マジな愚痴が始まっていたが、わたしは無視した。あと別に「最後の」希望にする必要はないと思う。切り替えが下手すぎて涙が出てくる。そういうところが好きだけど。
「おい、無視すんなよ」
「わたしだって、やりたかったよ。叶親と」
 ついつい、本音が漏れてしまった。あ、やべ、と思った。
 このあと、彼はきっとこう言うに違いない。「じゃあ、今からやろうぜ」とかなんとか。
「じゃあ、今からやろうぜ」
 ほら来た。ジョセフ・ジョースターばりの冴えだ。さて、どうしよう。なにもかもが今更に思えてならない。だって、もう十年も経ってしまったのだから。高校生ならば一時の気の迷いで済む。なにをしたって火遊びで済みそうな気が、あのころはしていた。強気な塩田のそばにいたら、ほんとうにすべてを遊びにできた。でも、今は違う。やっちゃったら、きっとずるずると結婚まで一直線。そんなのはごめんだ。
「やらないよ」
「どうして」
 ここは正直に言ってみよう。後悔するかもしれないから。
「叶親が好きだから」
「好きならやってもいいだろ。俺も好きだし」
「好きだから、やりたくないんじゃん。わからない?」
「……わからん」
 と言いつつ、彼はなんとなく理解しているだろう。わたしたちはやっちゃいけないんだってこと。もしかすると塩田たちが原因なのかもしれない。セックスの暴力性のようなものばかり見せつけられたせいで、セックスそのものがタブーみたいに思えるのだ。なんの文脈も意味もなく奈良にレイプされた叶親は、なにもかも塗りつぶしてどうでもよくする、セックスの魔力みたいなものに気づいている。たぶん。
「なんとなくわかるけどさ、俺はそれでもやっぱりやりたいと思うよ。童貞捨てたいからとか、そんなちゃちな理由じゃなくて、きみとやりたいって思ってるんだよ」
「じゃあ、お別れだよ。わたしはやりたくないし、もう恋人でもなんでもないから」
わたしは震える声で切って捨てる。切って捨てるのが一番いいはずだった――のだが。
「待てよ」
 と彼は凄みのある声を出した。そして、わたしの手首をぐっとつかんで、体を自分の方へ引き寄せる。もともと剣道部員だったせいか、力はやたらと強い。振り払えない。
「きみのほうが、いつだって正しいよ。やったら終わっちゃうとか、冷めちゃうとか、ずーっと言ってたもんな。たぶんそうなるんだと思う。当たる予言な気がするよ。でも、でもさ……」
 いつのまにか彼の腕の中に収まってしまっていた。近くで見る彼の頬は紅い。
 ああ、これはだめだ。こんなふうにあたたかく抱き寄せられたら、情に流されそうだ。
「このまま別れるなんて言うなよ。このままやらずに別れたって、きみはまたどっか行っちゃうだけだろうが。ふらっと現れて、けらけら笑って、知らない場所へ行っちゃうだけじゃないか。そんなのはもう、この十年だけでこりごりだよ」
 一生懸命な声が、宙を漂っていた。中学生の女の子がつけるコロンみたいに、甘く、ふわふわと。
 ああ、ああ、だめだ。わたしは彼の、一生懸命でかわいそうなところが好き。
 いつだって哀れなくらいにまっすぐなところが好き。
 だから、そんなふうに言われたら。
 ひねくれて折り曲がってばかりのわたしは、反対方向へ曲げられてポキリと折れる。
「かのおや、セックス、しよっか」
 言ってしまった。雰囲気に流されて折られた。
 それを聞いた彼は、とてもうれしそうなのに、とても悲しそうで。
 わたしたちはふたりとも、やっぱり終わりを知っていた。
 終わる前から、終わりを予感していたのだと思う。

 全部終わってから、ベッドに座った叶親の隣で、唐辛子で水面が赤く染まったカップラーメンを食べていた。ホテルに向かう前に買ったものである。ちょうど小腹がすいているからと思い、なにも考えずに買ったのだが、それを見て彼はこう言った。
「きみ、ストレスたまるといつも辛いもの食ってるよな」
 言われて初めて気がついた。思い出してみるに、たしかにわたしが辛いものを買うときは、いつもなにかしらの怒りや悲しみがあるときだ。叶親は、わたしの知らないわたしを知っている。ずっとわたしをちゃんと見てくれていた。そのことが、せつなくて、おかしかった。
「そうかな」
「そうだ。みょうじ、全然変わんないよ」
「変わってないかな」
 彼の言葉を反復した。変わっていないということは、終わってもいないだろうか。
 わたしたちは、やってはいけないことをしてしまった気がするけれど、ほんとうはそうでもなかったのだろうか。
「変わってないし、終わってもいないよ。俺はまだみょうじが好きだし、これからもずっと好きだ」
「わたしも、叶親が好き。一番好き」
 愛の言葉は、虚しい響きになる。急に内容を失って、コロンみたいな甘さもなくなって。相手に気持ちが届かなくなっていた。ふたりとも片思いしているみたいだ。おとながセックスするということは、そういうこと。セックスで愛を証明するなんて嘘だ。わたしたちのあいだでは、セックスに焦がれることだけが愛だったのだ。それを知っていたのに、どうしてわたしはここに来てしまったのだろう。どれだけ考えてもわからなかったけれど、わたしがこれから、叶親と結婚してしまうであろうことは容易に想像できた。それを必死になって止めてくれる塩田も、奈良も、もういない。愚かなる青春の日々は終わり、わたしと叶親は現実へと歩みを進める。
「わたしたち、ずっと同じところをグルグルまわってたみたい。十年前からずっと、同じ円を描いてただけだったね」
 でも、その円が気持ちよかったんだよ。
 もう描けない、きれいな円いラインが、ただ恋しい。叶親の腕に触れながら、そう思った。

そして彼は、終わりのスイッチを押した

 20161031
普段からやることばかり考えていたら、やった瞬間に虚無になってしまうんじゃない?という仮定に基づいたなにか。
両想いのはずなのに、どちらも一方通行。みたいな状況が好きです。
一人称「俺」と「ぼく」で悩んだけど、俺で統一しました。