「やや、花火が上がったようだな」
ここは、海岸沿いにあるホテルの12階。窓の外には夜景が広がっていました。海と夜空の境界がどんどんあいまいになって、世界ごと紺色にしてしまうようでした。
ふしぎなふしぎなやぎのムッシュ・ムニエルは、ワインを片手にわたしのほうをそっと振り返りました。彼の背後で、きらきらした花火がドカンドカンと浮かび上がります。おもちゃ箱をひっくりかえしたような夜空を見て、彼は退屈そうにあくびをしました。昼間に海水浴ばかりしていたせいか、すこしお疲れのようです。
そう、わたしたちはバカンスに来ているのです。
彼の魔術師の仕事は、しばらくお休み。
わたしも、助手の仕事はお休みにしています。
「いやあ、このワインはうまい。これでいい弟子が見つかれば、もっとうまくなるのだがなあ」
ムッシュ・ムニエルはまだ弟子探しをあきらめていないようでした。助手のわたしも弟子志望として立候補してみたりしたのですが、どうやら適性がなかったようで、彼に却下されてしまいました。魔術師になるのも、むずかしいものなのです。
「ねえ、ムッシュ」
「なんだね? なまえくん」
ワインの香りをかぎながら、わたしは彼に笑いかけます。
彼はベッドのふちに腰掛けていました。男性としては華奢な足が、すっと床まで伸びているのが見えます。
……男と女が、バカンスで二人きり。きらきらしたホテルのベッドに腰掛けて……そんな状況で、恋の話をするのは当然のこと。そう思いました。彼はそういうことに疎いので、もしかしたら嫌がられるかもしれません。でも、わたしからなにか言わなければ、きっと前進はしないのでしょう。
「ムッシュは、魔術師なのですよね」
「いかにも。このわたしは誇り高き魔術師だ」
胸を張って名乗りを上げる横顔からは、普段のおっちょこちょいな彼の側面はまったく見えません。ほんとうに有能な魔術師のようです。わたしは、そんな堂々とした彼のことを気に入ったのです。あの日、彼の魔術を見た瞬間から……。
「では、わたしに恋の魔法をかけてはくれませんか?」
勇気を出してそう言ってみましたが、彼は困ったように黒目を一回転させて、黙ってしまいました。
はて、ちょっと直接的すぎたかしら。慎みがなかったかもしれません。わたしはごまかすように、ワインを一口、口に含みました。
「きみは、恋がしたいのか」
「ええ」
「相手は、だれでもいいのかな」
……どうやら鈍感なムッシュ・ムニエルは、わたしの真意を汲み取ってくれていないようです。いままで、いっしょに長いあいだ旅をしていたのに、なんにも気づいていなかった彼のことが、急激に愛おしくなりました。失望なんてしたりいたしません。
わたしは、そんな彼をこそ、好きだったのですから。
むしろ安心したくらいでした。
「いいえ、だれでもいいなんてこと、ありません」
「ほほう、では、思いを遂げたい相手がいるのだね。だいじょうぶ、この偉大なる大魔術師の手にかかれば……どんな恋でも成就させてみせよう」
彼の声が震えているのを、聞き逃しはしませんでした。その震えた声を聞いたせいで、わたしは彼の心中を初めて察することができました。
「わたしは、ムッシュと一緒になりたいのです。あなたをお慕い申し上げているのです」
彼の頬がカーッと赤くなったかと思うと、数秒して、さっとその色が消えてもとの白へと戻りました。
「……実は、なまえくんに隠していたことがあるのだ」
彼は恥ずかしそうに頬をかきながら、こう言いました。
「なまえくんと初めて会ったとき、わたしがなにをしていたか覚えているかな」
「ワイングラスにオレンジジュースを入れて……そこになにか白い石のようなものを入れていましたね。すごく真剣な様子でした」
「あれは、月の石だ。特別な魔力をふくんでいる。よく魔術に用いられるものだね」
「では、やっぱり……なにか魔術を使っていたのですね。成功しましたか?」
「成功したと思っていた。あのときはね」
成功したと……思っていた?
では、失敗だったのでしょうか。なぜ、いま、その話をするのでしょう?
……彼が使っていたのは、どんな魔術でしょうか?
首を傾げるわたしに、彼は困ったようないつもの表情で、こう耳打ちしました。
「わたしは偉大なる大魔術師、ムッシュ・ムニエルだ。だが、失敗が少々多い」
「存じております」
「でも、きょうだけは失敗してよかったと思うよ」
彼は魔術書のページをぱらぱらとめくって、まんなかあたりのページをわたしのほうに示しました。
彼が指さしたページには、魔術師のことばで、こう書かれていました。
『つらい片思いの恋心を、きれいさっぱり消し去る魔術』
『必要なものは、月の石、オレンジジュース、そしてワイングラス』
「……どうやらわたしの恋情は、消しきれていなかったみたいだ。きみを助手にスカウトする前に、ちゃんと消しておこうと思ったのだがね」
彼は、ふたつのワイングラスにまっかなワインを注ぎはじめました。
その片方を手にとって、あの日のことを思い出しながら、わたしは「乾杯」と言います。
窓の外ではまだ、花火があがっていました。オレンジジュースと同じ橙色と、ワインと同じ赤色が、窓の外で交互に点滅して、消えてゆきました。
そのあと、彼が頬にそっとキスを落としてくれたのを、わたしは生涯忘れないでしょう。
彼にしてはめずらしく、ちゃんと成功した恋の魔術のひとつとして。
ワイングラスに閉じこめて
「なまえくん、今度は助手ではなく、恋人として……一緒にいてもらってもいいかね」
「もちろん。このワイングラスでかけられた魔術が、とけるまで。ずーっと一緒にいます」
ぱん、と窓の外で赤い音がはじけます。
奇しくも、くすぶりつづけた恋が胸の奥ではじけるのと同時にそんな音がしたので、わたしたちは窓の外を見ながら笑いあったのでした。
20180126