あの日見たのは、世にも恐ろしい災厄だったのか、それともわれわれの愛した神による罰だったのか。私には詳細な記憶がない。したがって、私をあの場から救ってくれたのがいったいだれであったのかも不明である。
その人物について、グズマはなにか知っている様子だった。

「たぶん、そいつは名乗らなかったんだろうぜ」

しみじみと、まるで知人の話でもするように彼は語った。

「そいつはきわめて優れた警察官だったって話だ。これはおれさまの知りあいに聞いた話だが、警察官ってのは優れていればいるほど、仕事のあとには名乗らないんだってさ」

職務を全うしたら、名乗らずに去っていく。それがあるべき姿だから。

「まあ、案外近くにいるかもしれねえがな」

彼は居住まいを正すようにサングラスの位置を直した。
深い尊敬や感謝を込めたような、彼らしからぬ仕草だ。もしかすると、彼もその人に救われたのかもしれない。

「いつか、その方に会えるでしょうか」
「相手は会いたくないんじゃねえか?」

感情のこもっていないような、冷たい答えが返ってきて驚く。

「どうして?」
「……ひどい事件だったんだぜ。おまえは助かったかもしれないが、トータルで見たら警察の不祥事だよ。死人が出たし、しまキングは代わった」

そんな思い出をいまさら蒸し返してどうするよ、とグズマは冷静に分析してみせた。
たしかに、そうかもしれない。
いまだにあのとき壊れた建物は復興できていない。みんな近づこうともしないし、廃墟のままだ。特にスーパー・メガやす跡地の状態はひどい。年々、強大な力を持つゴーストタイプのポケモンが増え続け、人間の手には負えないありさまだ。

「だいたい、記憶がなにもないのに礼を言いに行ったって仕方ないだろ。つらいことを思い出しちまうかもしれねえし、やめときな」

……それは、そうかもしれない。
思い出せないということは、思い出さないほうがいいということだ。
でも、私がいまここで生きているのは、あの人のおかげだ。本来なら、スーパー・メガやすのようにぼろぼろの状態になっていたはずなのに。
なにか、思い出せることはないのだろうか。
せめて恩人の姿だけでも、記憶のなかからひきずりだすことができたら。
目を閉じて、記憶を探ってみる。
そんな私に、グズマはなにも言わなかった。
そのまま深呼吸をして、あの日の記憶に手を伸ばそうとした。
……相変わらず、なにも思い出せない。

「どうだ? 悪あがきは終わったか?」

グズマの声に呼応するかのように、紅い紅い、宝石のような輝きが見えた。
血液の赤にしては色が濃く、深い。
これは……瞳だろうか?

「ルビーみたいな赤色が見えた」
「そうか」
「その人の目……赤色だったのかな?」
「さあな」

グズマの答えのそっけなさは、真実を示しているような気がした。ウラウラ島じゅう……いや、アローラじゅうをまわってでも赤色の瞳を持つ人物を探してやりたい気持ちが一瞬だけ浮かんだが、さきほどのグズマの助言を思い、やめた。その人はもう職務を終えているし、私に会いたくなどないのだ。

その人は、あきらめたように、あるいはなにかを懺悔するかのように、私のほうをじっと見ていた。まるで一生で一度の恋でもしているかのように、私はそこから感情を読みとろうとする。そのうちに彼の姿や感情が鮮明に見えそうな予感に震える。彼はウラウラ島のために必死に尽くしたはずだ。建物がいくつも壊され、この島はめちゃくちゃになった。あの絶望の日、彼はひとりでも多く助けようと手を伸ばした。必死に駆けるその後ろ姿までが私のなかでくっきりと像を結んでいく。たしかな実像になっていく。私のなかで再構成されて、もうひとりの彼になって、そのまま駆け出していく。

「それくらいにしとけよ」

グズマの哀れそうな声が耳に残る。それでも私のなかの彼は止まらない。
走って、走って、手を伸ばして。光のなかへ消える。
それでもやはり、名前は思い出せなかった。

20190912
twitterより、「やはり名前は思い出せなかった」で終わるSSというお題を拝借しました。