その日の放課後、わたしは鬼首の研究室へ向かった。彼がそこにいることは確認済みだった。
例のまがまがしい偽研究室の奥で、ピカピカ光る、ほんものの研究室。そこに彼はいた。
「やあ、みょうじちゃん。きょうはどうしたのかな? かしこまった顔しちゃって」
「一週間後のきょう、お休みをいただきたいのです」
と、わたしは彼に告げる。放課後は彼の手伝いをする約束をしているから、真っ先に打診しに来たのである。ほかの先生方には、このあとで言いに行くつもりだ。
「おや、珍しいね。君が学園を休むだなんて」
彼はちょっと不安そうな顔をしている。もともと不登校であったわたしだが、彼に背中を押されてからは、まじめにQクラスの授業に通っている。が、そんなわたしがまた休むと言い出したら、「不登校に戻りたい」という意味だと思われても仕方がない。当然の反応だった。
誤解を解くべく、わたしは説明をはじめた。
「その日は、父の命日なんです。お墓参りに行きたいのですけど、ちょっと遠くなので……」
「ああ、そうか。もうそんな時期なんだね」
彼は遠くを見るような目をした。わたしがここへ来たときのことを思い出しているのかもしれない。
「わかった。じゃあ、団先生たちにはワタシが伝えておくよ。ワタシは仕事があるから行けないけど……気をつけて行っておいで」
優しい声音でそう言われて、わたしは深く礼をした。
「ありがとうございます……行って、きます」
視線をはずして下を向いた瞬間、わたしは彼と初めて会った日のことを思い出していた。
あの日、わたしのなかにくすぶっていたのは、自分への無力感と、『冥王星』への憎しみだった。
負の感情で体をがんじがらめにされたわたしに、彼は優しくしてくれた。そのおかげで、だいぶ救われたと思う。
でも。
それでも、わたしの父が死んだという事実は変わらないのだ。
『冥王星』のせいで死に至らしめられた父に会いに行く。
まだ『冥王星』の存在に届いてすらいない未熟なわたしに、その資格はあるのだろうか。
一瞬、そんな暗い思考がよぎった。
ダークサイドはすぐそばに
父の墓に来るのは久しぶりだった。近くに住んでいる祖母が手入れをしてくれているのか、墓の周囲はとてもきれいで、真新しい花が供えてあった。荒れ果てていないことにほっとする。ほんとうはわたしが手入れをしなければならないのかもしれないが、往復で一日かかってしまう距離であるうえに、父にあわせる顔がないような気がして、足が遠のいていた。そんなわたしに、祖母は「何度も来てくれるより、元気で成長してくれたほうがいいよ」と言ってくれていた。たしかに、わたしが死んだ父という存在に依存してしまえば、父も祖母も失望するに違いなかった。それよりも、前に進まなければならない。
墓の前で手を合わせて、父に語りかける。
「お父さん、わたし、探偵学園に通って、科学者の先生と一緒に、科学の勉強をしているよ。探偵のみんなが力を発揮できるようにサポートするのが、科学者の役目なの」
目を閉じて、わたしは鬼首やQクラスメンバーの顔を思い浮かべていた。そうすることで、父も彼らを見てくれるような気がする。
「お父さんの愛した科学の心、わたしが受け継ぐ。だから、ここにはあまり来られないかもしれないけど、見守っていてください……」
そのとき、ざり、と砂が擦れるような音がした。あわてて振り返ると、わたしの背後に、見慣れた人物がいた。
「花を供えさせてもらってもかまわないかね?」
「だ……団先生!」
天下の名探偵……団守彦、その人である。背後には片桐が立ち、いつもどおり、彼の車椅子を支えていた。
まさか、多忙を極める彼が、こんなところへ来てくれるなんて思わなかった。
「ありがとうございます。父も喜ぶと思います」
恐縮して、ぺこぺこしてしまった。どうも、この人を前にすると縮こまってしまう。
団と片桐は父の墓に花を飾り、手を合わせてくれた。その動作がすべて終わってから、わたしのほうを向き直る。
「最近はどうかね。ドクター・ドクロは相変わらず、マイペースな人だろう?」
わたしは苦笑する。
「そうですね、我が道を行く、という言葉がぴったりの方です」
「『団守彦の懐刀』なんて呼ばれているとは思えん、愉快な男だろう? 科学者としての彼は非常に優秀なのだが、真剣な話をしている最中も、時折あの調子で茶化すのが玉に瑕だな」
「まったくです。七海く……七海先生もそうですが、ちょっと緊張感がなさすぎるんですよね」
と呆れた調子で片桐が応じる。しかし、その口調にはあたたかさがあった。
その後、団はふと真顔になって、こう言った。
「そろそろ、君に言ってもいい頃合いかもしれない」
「何を、言うっていうんですか?」
わたしは胸に手を当てて身構えた。団がわたしに何かを隠しているのは、うすうす気づいていた。
DDCのメンバーとわたしのあいだには、なにか薄い膜のようなものがはられていて、それ以上近づけないようになっている。そんな空気をずっと感じていた。鬼首も例外ではない。
「君の直属の教官をドクター・ドクロにした理由だよ――」
団は人差し指を立てる。
「君の教官を彼にしたのには、科学者だからという以外にも理由があってね。彼は、DDCおよびDDSのなかでは、もっとも『冥王星』への恨みから遠い人物だからなのだ」
「……!」
やはり……団も気づいていたらしい。
わたしのなかにある、『冥王星』への深い恨みに。
『冥王星』が犯人である男と出会わなければ――父は殺されなかった。
わたしが憎むべき、ほんとうの敵。そして、DDCにとって最大の宿敵。
『冥王星』――。
「わたしが君と出会ったとき、君の科学者としての資質に期待を抱いたのは事実だ。しかし、それよりも大きな心配があった。君が、優れた科学者になる前に、犯罪者になるのではないかという懸念がね。つまり、特別に試験抜きで学園へ招き入れたのは、君を信じていなかったためともいえるだろうな」
"特殊枠"――などという強引な理屈を組み立てて、わたしをQクラスに入れたほんとうの理由。
単なるえこひいきや親の七光りのためなどではない。むしろ、もっと残酷な理由だった。
彼らがわたしを学園に置いているのは、わたしが『冥王星』への個人的な復讐を企てる前に、DDCの目の届く範囲に置いておきたかったから、なのだろう。
Qクラスとは、団守彦の後継者を育てるクラス。
つまりは、団守彦にもっとも近いクラスだ。
団守彦およびDDCは、わたしを自分のそばに置いて、育成しつつ監視したかった。私怨に走らないかどうかを見張っていた。一学生として勉強をさせつつも、間違った成長をすることがないように、鬼首に世話を頼んだ。
……ざっと、そんなところか。
当の鬼首がどこまで知っているのかは不明だ。が、単なる先輩教官というわけではなさそうな気がする。
団は、説明をつづけた。
「『冥王星』への恨みで直情的に動くような人物を君の教官に据えると、君まで恨みに染まってしまうような気がしてね。その点、鬼首独郎博士は、自分の発明をDDCの捜査に役立てたいという気持ちが第一の、"正しき"サイエンティスト。むろん『冥王星』への負の感情を持っていないわけではないが、他人を引っ張り込むほどの憎しみは、おそらく彼の中にはないだろう」
やはり団守彦は名探偵だ、とわたしは思った。
起きた事件を解決するのみならず、起きるはずの事件を未然に防いだのだから。彼だって、『冥王星』を憎んでいるはずなのに、その感情を殺して、冷静に判断し、こういう状況を作り上げた。
わたしが今、恨みや憎しみに流されていないのは、鬼首のおかげであり、そして団のおかげなのだ。
団が仕組んだ通り、鬼首と一緒に過ごす時間はとても楽しい。
いつのまにか、わたしにとって、彼との放課後は、とても大切なものになっていた。
復讐なんて、頭から抜けてしまうくらいに――。
そんな平和ボケしかけた自分に、ちょっとだけ嫌気がさしてしまう。
名探偵は、父の墓を見つめつつ、わたしに言った。
「……君が現在を楽しんでいることは、悪いことではないよ」
「わたしの気持ちを読んでいるみたいですね、団先生」
「君たちの気持ちなんてお見通しだ」
と、平然と彼は言う。隣で片桐も頷いていた。そうかもしれない。おとなたちから見れば、わたしたち子どもの感情なんて、透けて見えているようなもの。鬼首と接していても、そういう気配は常に感じている。
自分では必死に隠しているつもりになっている、どす黒い感情も――おとなたちには、すべて見えているのかもしれない。
「今一度言っておくが、悲しみにとらわれてはいけない。それも、君の場合、まだ癒えていない巨大な悲しみだ。そういうものに捕まると、向こう側へ持って行かれてしまう。気をつけたまえ」
向こう側――『冥王星』の側へ、ということか。
「そんなことになったなら、わたしは自分を許せなくなるだろうな。わたしは君を助け、生かした。君がもし犯罪者になることがあれば、団守彦は犯罪者の誕生に一役買ったことになる」
冗談のように軽く言ってから、彼は一息ついた。
「では、わたしはそろそろ帰らせてもらおう。仕事が残っているのでね」
「ありがとうございました、団先生」
父の代わりに、わたしは礼を言った。
自分以外にも、父のことを忘れていない人がいる。のみならず、その人はわたしのことまで考えてくれていた。
それだけで、救われるような気がした。よい一日だ、と思った。
そのあと、墓の掃除をしたり、祖母の家に寄ったりしているうちに、時間は飛ぶように過ぎていった。
電車に乗り、学園に戻ると、もう夜更けである。
とっくにQクラスの授業は終わっていたし、学園には誰もいないようだった。
「みょうじちゃん遅いよ! もう待ちくたびれちゃった」
学園を出て、例の廃屋に寄ると、天才科学者がそんな声を上げた。時間はだいぶ遅いのだが、まだまだ元気なようだ。
というか、この家にはよく来るが、彼が寝ているところを見たことがない。……いつ寝ているんだろう。
「きょうは、こちらでお仕事されているんですか?」
「そうだね、模型づくりしてたんだ。あと、君を待ってた」
「わたしを?」
彼は模型の一部を机に置きつつ、ニコッと笑った。欠けた歯がちらりと見える。
「一緒に夕食でもどうかと思ってね。来なければ呼ぶつもりだったが、やっぱり来た。予想通りだ」
どうやら、わたしのことを考えてくれているのは、団だけではないようだ。実は、父の墓参りの直後、ひとりきりで食事するのはとてもつらいことだった。自分は孤独なのだと、父はもういないのだと、否応なく気付かされそうで、怖かった。
しかし、どうやらそんな不安は彼が帳消しにしてくれそうだ。
他人の気持ちを理解しないようでいて、思いやりの心はしっかり持っている。それがわたしの知る鬼首という人だ。
「ドクター、あらためて、ありがとうございます。ドクターがいなかったら、わたし、泣いちゃったかもしれない」
「そんなおおげさに礼を言うことでもないさ。さ、行こう。お店が閉まってしまうからね」
彼はわたしの手を引いて歩き出した。当然のようにわたしを引っ張って夜道を進んでいく強引さに、たしかに救われていた。
団の話を聞き、わたしは鬼首のことをすこしだけ疑っていたかもしれない。
――わたしが犯罪者にならないように監視する役目を頼まれたから、優しくしてくれていたのですか?
墓から帰ってくるまでのあいだ、鬼首にそう尋ねようかどうか、ずっと迷っていた。今も迷っている。
でも、きょうのところは、このあたたかい手を信じてみたい。
きっと彼は、血が通っていないような、冷たいだけの監視者ではない。わたしは、そう思う。
「みょうじちゃん。この一年間、ひとりぼっちでよく頑張った。君はもっと自分を誇ってもいい」
道すがら、押し黙っているわたしに、彼はそう声をかけた。その言葉を聞いて、彼に監視の件について問うのはやめようと思った。わたしがなにかを隠していることを知っているにちがいない彼は、なにも問いかけてこない。相手にすべてを問いかけることに意味はない。信頼しているからこそ、なにも問わないこともあるのだ。
――団先生、あなたの判断は正しい。この人は、わたしに復讐をさせたりしない。わたしが落っこちそうになったとしても、きっと、ちゃんとすくいあげてくれる。
昼間に会った名探偵に、心のなかでそう告げて、わたしは明るい光のなかを歩いていく。
どんなに父の不在がつらくとも、闇のなかへ落ちることはないだろう。
なぜなら、光をまとったこの彼が、となりにいるのだから。
20161117