鬼首とふたりきりで出かけることになった。当然だが、デートなどではない。
 本来はふたりともQクラスの課外授業に同行するはずだったのだが、研究室での夜中の研究が白熱した結果、ふたりして寝坊。昼すぎに目覚めたときには、学園には誰もいなかった。
 研究室の机のうえには、書き置きのメモがあった。七海の文字だ。
『ふたりとも、研究熱心なのはいいが、寝坊はダメだぜ。今回はこの七海さまがごまかしておいてやる。次からは自己管理をしっかりしてくれ  めちゃくちゃ気が利く美男子・七海さまより』
「どうしましょう……ドクター」
「七海ちゃん、ここまで来たなら起こしてくれたらよかったのにねぇ」
 焦るわたしとは対照的に、彼はのほほんとそう言った。そして、こうつづける。
「置いていかれちゃったもんは仕方ないな。七海ちゃんがどうにかしてくれるっぽいし、きょうは、ふたりで遠足にでも行こう」
「の、のんきですね……」
「あわててもどうにもならないことでは、あわてない。それがワタシのモットーだよ、みょうじちゃん」
 大きなあくびをしながら、彼が言う。いつもどおり、どっしりかまえている彼だった。……寝坊に関する反省が見られないあたり、単なるものぐさのような気もするが。

青空の下、きみとふたりで

 
 ということで、ハイキングへ行くことにした。もうあまり時間がなく、遠くへ行くことはできない。学園からバスで三十分ほどかかる、小さなハイキングコースへ行き、終点のレストランで昼食。そのまま土産でも買って帰ろう……ということになった。
 そして、二時間後。
「もうかなり長いあいだ、歩きつづけているぞ! 目的地はまだなのか!?」
 鬼首の怒りの声が、誰もいない道にむなしくこだまする。見た目があまりに若々しいので忘れがちだが、彼はわたしの二倍以上年をとっている。もちろん、疲れやすさも二倍以上だろうし、自分の体が思い通りにならないことによるイライラも二倍以上に違いなかった。
 ぜえぜえと息を切らしている様子から、研究室にひきこもってばかりいる生活ぶりがうかがい知れた。
「運動不足ではないのですか」
 と話しかけてみると、イライラのこもった目で見下ろされた。
「うるさい。科学者というのはね、インドア派でなければならない! それは、もう何十年も前からそういうもんなの!」
 こんなふうに怒鳴り散らす彼というのは、そうそう見られるものではない。普段は飄々としているばかりで、怒ったりしないからだ。
 怒られるから口には出さないけど……ちょっと、おもしろいかも。写真撮ったらダメかなあ。
 そんなバカバカしいことを考えつつも、彼があまりに汗だくなので、だんだん気の毒になってきた。体調が相当悪いのだろう。目もすわっている。これで倒れられても寝覚めが悪い。
「そこの公園で休憩しましょう?」
 と提案してみる。ハイキングコースという名前ではあるが、実際は『田舎の歩道』でしかないため、公園がそこかしこにある。道路もちゃんと舗装されており、ハイキングとしてはかなりレベルの低い部類なのだった。
 彼はキラキラした声で喜びを示した。
「この天才ドクロ、今ほど君の判断が的確だと思ったことはないよ。やるときはやるね、君は!」
「その評価、褒めているようでいて全然褒めてないし、めちゃくちゃ失礼ですね……」

 さて、公園内では、携帯ゲームに熱中する子どもたちや、ベンチで寝ている老人などがいたが、頓狂なコスプレをしているとしか思えない科学者には目もくれない。ある意味、休憩のためには非常に優しい環境と言えた。どこにいても悪目立ちするというのが鬼首という男の最大の特徴なのだが、目立たないことも、たまにはあるらしい。
 休めることが確定したせいか、彼の機嫌は一気によくなった。
「ここはよい場所だね。あそこのベンチで休もうじゃないか」
「そうですね。わたし、さっき、研究室から紅茶を持ってきたんです。リュウくんおすすめのものなので、きっとおいしいと思いますよ。ドクターのカップもあります」
 あの研究室には、水筒やきゅうす、茶葉などが備えてある。主にわたしの生活のためのものだ。今回はハイキングをするというので、急いで紅茶を入れて持ってきた。とっさの判断だったが、役に立ってよかった。
「そうか。では、ごちそうになろうかな」
 ベンチに腰掛けてみると、公園内のすべてが見渡せる。中央には噴水があって、きれいな水が流れ出ていた。すべり台とジャングルジムには子どもたちがたくさん群がっていて、いつの時代も子どもというのは外で遊んでいるものなのだな、と思う。わたしが小さなころは、ジャングルジムのいちばん下にもぐって、上を見るのが好きだった。ジャングルジムという不可思議な立体そのものに魅せられていたのだろう。その時点で、すでにちょっとだけ、科学者体質だったのかもしれない。
 目の前に広がる、普遍的で、のどかな休日の風景。普段、死体や人体模型ばかり見ている身としては、新鮮な眺めに思える。彼も同じことを思ったのだろう。そっと深く長いため息をついた。
「こういうのは実に、新鮮な趣向だね。新鮮すぎて腰が抜けそうだ」
 その言い方が妙におかしくて、わたしは吹きだしてしまった。
「ドクター、普段、お出かけはされないのですか?」
 彼は、ベンチの下で足をぷらぷら揺らして答える。
「家と研究室を行き来するくらいかなあ。あとはまあ、資料をもらいに車で移動したりすることはあるが……DDSやDDCに関係のない外出というのは、ほとんどしていないと言っていい」
「ずっと室内にいて、ストレスが溜まったりしないのですか?」
「そんなことあるわけないでしょ。室内にはワタシの大好きなものしかないんだよ?」
 好きなものに囲まれて、好きなものを愛でて、好きな仕事をして……それはとても理想的な生活なのだろう。しかし、そこには他者が存在しない。鬼首はいつだってひとりである。七海や本郷と話すことはあるのかもしれないが、彼らは科学者ではない。ほんとうの意味での理解者にはほど遠いと思う。わたしは、そう考えて、彼にこう問いかけた。
「……ドクターは、寂しくはなりませんか?」
「そうだねえ……」
 彼は珍しく考えるそぶりを見せた。ぱちゃぱちゃという噴水の音をバックに、彼は話し出す。
「寂しいとか寂しくないとか、そんなことを考えたことはなかったよ。ワタシにはエリザベスもいるしね。しかし、君とこうして光の下を歩いてみると、妙にワクワクしたりもする。科学とはまた別のワクワクだ」
 言い終わってから彼は、紅茶を飲む。わたしが先ほど注いだばかりのローズヒップティは、まだ湯気を立てていた。
「これ、おいしいね」
「それはよかった。持ってきた甲斐があります」
「科学とはね」
 と彼は唐突に早口で語り出した。マッドサイエンティストにふさわしい口調だった。
「ワタシのもっとも偉大なる友人であると思う。話すべき言葉を持たない無力な友人だ。ワタシはどうも彼と仲良くしすぎたらしい」
「仲良くしすぎてはいけないのですか?」
「しすぎていけないことはないだろう。しかし友人とは往往にして、時間と労力を食っていく化け物だからね。ひとりの友人にリソースを持っていかれると、ほかの友人とは付き合えないものだ」
「……友だち、いないのですか」
「一言多いよ、君は」
 と彼はちょっと怒った調子で言う。きょうのわたしは、彼をいじめすぎているかもしれない。体力的に優位であることに気づいたからだろうか。……威厳を取り戻したいのか、彼は咳払いをして空気を変えようとした。
「ごほん。きょうは外に出ず、学園で研究をして過ごすこともできたわけだが、思い切ってみょうじちゃんと外を歩いたのは、非常に有意義なことだったと思う。たまには科学から離れてみるのも一興だ。今、言いたいのはそれだけだよ」
「わたしも、きょうはいい一日だと思いますよ。学園に帰ったら、たぶんお説教が待っていると思いますけれど……」
 寝坊について、七海はたしかになんとかしてくれるとは言った。が、彼がごまかしきれるほど、団や片桐は甘くない。
「違いないな。ま、ワタシのせいで寝坊したんだから、ワタシがちゃんと言ってあげるよ」
 わたしは冗談めかして笑った。
「ドクターは見通しが甘いです。『ドクター・ドクロはこういう人なのだから、君がちゃんと見てあげないとダメだろう』って、ドクターもわたしもみっちり怒られるに決まってますよ。片方だけ怒られるなんて、ずるいですしね?」
「そうだね。おとなだからとか、子どもだからとか……そんな理由で怒られないのは、おかしいよね」
 彼は心底おかしそうに笑って、空を見上げた。空は真っ青で、雲ひとつない。きっと学園のほかの面々も、楽しい課外授業をしているに違いなかった。一緒にはいられないことになってしまったけれど、同じ空の下にいるのだから。
みょうじちゃん。かけがえのない日というのは、たしかにあるね。こういうものを、ワタシたちは守らなきゃならん」
 ひとりごとのように彼が言う。その真剣な言葉は、さわやかな風にのって、どこか遠くへと流れていった。
20170112