武装商船団は荒くれ者の集団かと思っていたけれど、働きはじめてみると、案外まともな人が多かった。会話してみると、純朴な男ばかりだ。
酒場で働くと決めたときは、ある程度は体を触られたり不快な言葉を投げかけられたりしても仕方ないと考えていた。
しかし今のところ、そういった目に合ったことはほとんどない。
泥酔するような人もいないし、みんな、酒の飲み方がきれいなのだ。
自分の限界を知った飲み方だし、倒れたり吐いたりする人は見たことがない。
「はっ、そりゃあ、おれが鍛えてやってるからさ」
わたしの話を一通り聞いたマゼランは、そう言って豪快に笑った。
「武装商船団に入ったやつには、まず限界まで飲ませて、自分が飲みすぎたらこうなるんだって、体に叩き込んでやるのさ。それで、酒場ではこれ以上絶対飲むな、飲んだらルドンに捨てに行くぞって脅しつけてやる。そうすれば、行儀のいい海の男のできあがりだ」
ビールをあおりつつ、そんなふうに説明してくれた。
もう5杯は飲んでいるはずなのに、顔色はまったく変化しない。
彼の『限界』は、当然ながら見たことがない。いつも涼しい顔で飲んでいる。
「武装商船団の品位を落とされたら、おれの夢が台無しになっちまうからな。気をつけてんだよ」
「夢って、なんなんですか?」
わたしがそう問いかけると、彼はニヤリと意味ありげに笑った。
「なんだと思う? ちんちくりん」
「ちんちくりんではありませんけど……大金持ちになる、とか?」
「ある意味では、大金持ちってのは合っているかもしれねえな。おれの夢は、バレンヌ帝国の皇帝になることなのさ」
わたしは2回ほど、長いまばたきをした。
夢……というより、それは野望だろうか。
武装商船団は現在の皇帝陛下のもとに下ったのだと思っていたし、陛下との関係は良好なはずだ。
現皇帝陛下は若く、才気あふれる人だと聞いている。
目の前の無法者じみた男には、皇帝になるチャンスなどめぐってはこない気がするが……。
「失礼なやつだな」
「……わたし、なにも言ってませんけど」
「目を見りゃわかるさ。全部、顔に出てるぜ? 今の皇帝陛下はあんなにすごい人なのに、マゼランなんかに皇帝の椅子がまわってくるわけない、とかなんとか、思ってるんだろ」
この人は、こうやって、相手の心を読むようなことを言ってくることがたびたびある。
毎回当たっているのが癪だが、気にせずに会話をつづける。
「皇帝になるなんてのは、おまえみたいなちんちくりんが思うより、ずっと簡単でシンプルなことなんだぜ。しばらくしたらわかる」
彼はわたしの耳に口を近づけて、こうささやく。
「おれが無事に皇帝になれたら、おまえを『妃』にしてやろうか?」
「……あなたみたいな人、お断りです」
反射的にそう言い返したが、実際は心臓のバクバクを抑えるのに必死だった。
……『妃』。
皇帝となった彼の隣に、わたしが座るのか。同じ城で、従僕たちに囲まれながら、ともに生涯を送るのか。
途方もない妄想なのに、彼が口にすると、現実になりそうで怖かった。
「残念だな。おまえとなら、城でも気楽に過ごせそうだなと思ったんだが」
彼らしくない、しおらしい声が聞こえたのと同時に、彼は酒場の出口へと駆けていっていた。
あまりにも子どもじみた、彼らしくない挙動だった。
「ツケといてくれ。次に来たときにまとめて払う」
気まずそうに走って帰ろうとする彼に、あわてて走り寄ってしまう。
「マゼラン、待っ……」
「じゃあな。嬢ちゃんのメシ、うまかったぜ」
今生の別れのような言い方だった。
もう二度と、この酒場には来ないのではないか。そう思わせてしまうくらいには、悲しそうに見えた。
本当に帰ろうとする彼の背中に、わたしは何も考えずに飛びついてしまった。
「マゼラン!!」
「………」
彼はなにも答えない。無言で、わたしが話しはじめるのを待っているみたいだった。
「なんで……なんで、そんな去り方しかできないんですか。わたしが、どんな思いで……」
「捕まえたぜ、嬢ちゃん」
彼は、わたしのほうを振り向いて、耳元でもう一度、いたずらっぽく囁いた。
その声は、彼には不似合いな、甘い響きを持っている。
そこで初めて、彼にからかわれたのだということに気がついた。
「わたしで、遊んでたんですか!?」
「……そうやって、子犬みたいに吠えるのがおもしろくてな」
「本当に最低。皇帝になるっていうのも、嘘だったんですか?」
怒りを込めつつそう問いかけると、彼はさらりとこう言い捨てた。
「いや。それは本当。皇帝になるなんて、だれにでも簡単にできるんだぜ。今の皇帝を殺せばいいんだ」
「……えっ?」
急に不穏な言葉が飛び出したので、わたしはとっさに彼から距離を取ってしまった。
そんなわたしを哀れそうに見て、マゼランは微笑んだ。
「おれはあいつの信頼を勝ち得ていると自負している。皇帝が死んだ暁には、次の継承の儀には呼んでもらえるはずだ。あとは、バレないように皇帝を殺せばいいだけだ」
「皇帝陛下はなにも悪いことなんかしてない。みんなを救うために、身を粉にして働いてるのに……本気で、そんなことを?」
「本気かどうかは、これからわかるさ。楽しみにしてな、嬢ちゃん」
彼はそう言って、今度は本当に帰ってしまった。
呆然とするわたしだけが、酒場に残された。
……皇帝を暗殺し、自分が皇帝になる。
そんなだいそれた野望は、彼には絶対に似合わないのに……と、思考を巡らせながら。
+++
それから、数年が経過した。月日が経つのは本当に一瞬だ。
わたしたちは長い長い歴史のなかの、ほんの一部でしかないのだと思い知らされる。
マゼランから途方もない野望を聞かされて、動揺したあの日から、かなりの時間が経過したが……皇帝陛下は存命である。きょうも新たな討伐に出かけていったと聞く。
武装商船団は、相変わらず陛下の使い走りのような役目を担っている。
マゼランはやっぱり飄々としていて、わたしもそんな彼に振り回されつづけている。
「おい、なまえ。きょうは、これが終わったら帰る。メシの用意だけ、しといてくれるか?」
マゼランはそう言いながら、船の舵を取っている。
そんな彼を傍らで見つめつつ、こう問いかけてみる。
「マゼラン。やっぱり、陛下を殺すっていう話は冗談だったの?」
「ん? まだそんなこと気にしてたのか?」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「途中までは本気だったさ。でも、やめにしたよ」
マゼランはいつもどおりの声で、つぶやくようにこう言った。
「……悲しむやつがいるからな」
マゼランの声には含みがあるような気がしたが、問い返すことはできなかった。
たぶん答えてはくれない気がしたから。
「あれから、おれなりに考えたんだよ。どうして玉座がほしいのかってな。最初はこの世の全部がほしかった。帝国だけじゃなく、領土や人間、すべての頂点に立ちたかった。でも……」
「でも?」
海風がわたしたちのあいだを通り抜けていく。
わたしの麦わら帽子が飛ばされそうになったところを、彼の手が素早くキャッチする。
「……でも、おれがほしいのはそんなものじゃなかったのさ。ただそれだけの話だ」
意味がわかりそうでわからない言い方だったが、彼に暗殺の意図がないことがわかっただけでも、わたしは嬉しかった。この数年、ずっとその日に怯えながら暮らしてきたから。
彼が牢獄に入れられるのではないか。あるいは本当に皇帝になって、そうしたらわたしとは会えなくなるのではないか。皇帝になったら、もう二度とこんなふうに、自由に船にも乗れずに……。いろんな可能性を考えては、不安になって、眠れなくなった。でもそんな日もきょうで終わりだ。
「島が見えてきたね。あれが、最果てなのかな」
「さあ、それを決めるのはわれらが皇帝陛下だ。おれは、あいつに報告するだけさ」
潮風の匂いがする。この香りこそ、今のわたしの日常そのものだ。
彼の隣りにいられてよかった、と心から思った。
潮風に乗る
20240315