夕暮れの公園には、どこか懐かしい、線香のような香りが漂っていた。宵闇は、まるであの世とこの世の境界線のようにゆらめいて足元を覆う。人影はまばらで、わたしの商売は繁盛しているとは言いがたかった。やはり、夕方にアイスを食べたいと思う人間は少ないのだろう。
わたしは、この公園で毎日アイスを売っている。屋台の営業許可をとるのは大変だったが、前々からこういうのんびりとした客商売をしたかったわたしには、天職だった。こんな仕事が長くつづくと思うほどのんきではないつもりだけれど、幸い、まだ金に困っているわけではない。たいして繁盛しないとわかっていながら、夕方に店を開けるくらいには余裕がある。
アイスの味を追求するのは好きだ。でも、それだけで人生が終わってもいいものか。最近はそのことをよく考える……特に、こんな人のいない夕暮れには。
「おい、ひとつくれ」
自分の今後の身の振り方について考え込んでいると、いつのまにか屋台の真ん前に男が立っていた。ずっと前を見ていたはずなのに、まったく気づかなかった。
男はどこかチンピラじみた風情で、色素の薄い髪をしていた。目つきはかなり悪く、もしかすると極道とかそういう人かもしれない……と思わせるほどだ。そんな人がひとりでアイスの屋台に来たということがいまいち信じられず、わたしは思わず疑念を込めた目で彼を見た。
「聞こえなかったか? アイスをひとつよこせと言っている」
「あ……えっと、250円です。お味はどれにします?」
「ラムレーズン」
「カップとコーン、どっちがいいですか?」
「コーンだ」
タダでよこせとか店ごとよこせとか言われたらどうしようかと思ったが、そんなことはなく、普通に小銭が出てきた。ほっとしながら、彼にラムレーズンアイスを手渡す。
「うめえじゃねえか」
彼は目の前でおいしそうに平らげたあと、
「ピスタチオとブラッドオレンジとマンゴー、あとブラックチョコをくれ」
「お持ち帰りですか? ではカップに……」
「いや。今食うからコーンにしてくれ。カップはなんだか損したような気になるから好きじゃねえ」
聞き違いかと思った。さすがに、そんなに食べたらお腹を壊すのでは……と思いつつ、言われたとおりにアイスを用意し、彼に渡した。あっという間にアイスが消えてなくなる。もう夕食時だというのに、こんなにたくさんアイスを食べる人は初めて見た。
「アイス、お好きなんですね」
「ああ、好きだ。ここのはとびきりうまい。王のデザートにふさわしい出来だ」
また来る、と言って、彼は風のように去っていった。
それが、わたしと彼との出会いだった。
このとき、わたしはまだ彼のことをなにも知らなかった。否、いまだによくは知らないのだが、彼の存在の異様さを知っていたなら、こんな凡庸な出会いにはならなかっただろうと、今ならばわかる。
ある意味で、この出会い方は奇跡だった。
+++
彼はよくわたしのところへ来てアイスを食べるようになった。溶けたアイスを食べたくないというのが彼の信条のようで、テイクアウトは絶対にしない。いつでも、わたしの目の前でおいしそうに食べて、そのまま帰っていく。
彼が何者なのか、名前はなんなのか……そんなことは一切聞かなかったが、単なるチンピラのヘッドなどではないような気がした。そもそも、自らを『王』と称するあたりにも、異様さが際立っている。
ある日、彼はぽつりとこう漏らした。
「……奇跡というものがあるとすれば、それはお前が単なる人間のアイス売りにすぎないということだ」
「どういう意味ですか?」
「誇り高き王の言葉に意味を求めるか。人間ごときにわかるはずもないが……きょうは機嫌がいいから言ってやろう」
彼はポケットに手を入れて、空を見上げた。いつもどおりに、夕闇が広がりかけている空。わたしと彼以外に誰もいない公園は、まるで異界のようだ。
「俺様は『王』だ。本来は人間などという取るに足らない存在とは言葉など交わさない。そういうことになっている」
「……そうなんですね」
接客業を長年やっている者として、この手の意味不明な文言には雑に相槌を打てばなんとかなるという実感がある。あまり深く掘ると機嫌を損ねる可能性がある。彼はお得意様と表現していいほどの我が店のヘビーユーザーなので、こんなことで失いたくはない。
「しかし人間もたまにはいい仕事をするものだ。俺様はちゃんと仕事をしている塵芥が好きでな」
塵芥って言われちゃったよ……とは思ったが、口にはしない。
「お前のアイスは上出来だ。ここ数百年で一番うまい」
「ありがとうございます。王様にそこまで言っていただけて、光栄です」
笑顔でのらりくらりとかわす。彼はわたしの反応には特に興味がないようで、淡々と語り続けていた。
「こんなにうまいのに、あと百年もしないうちに食べられなくなる。それが奇跡でなくてなんなんだろうな?」
きわめて遺憾だと言いたげに、彼はそうぼやいた。
まるで、百年後に自分が死んでいることなど絶対にない、とでも言いたげに。
それに、仮に百年後まで生きつづけるさだめだったとしても、わたしの感覚では、それを『奇跡』とは呼ばない。
食べたいものが食べられなくなる。それは、『奇跡』ではなく『悲劇』だろう。
やはり彼は変わっている……その風変わりさから、どうにも目が離せなくなっている自分に、ようやく気がついた。
+++
この世界には、天啓と呼ばれるものがある。それはある日突然、脳に降って湧いたように降りてきて、そのまま、意識をかっさらっていく厄介な悪魔である。わたしは彼からあの言葉を聞いた日から、ずっと天啓に取り憑かれているように思う。
「そろそろ、アイス売りをやめようかと思っているんです」
ある日、『天啓』の中身を彼に打ち明けてみたところ、
「……あ?」
彼はぽかん、と口を開けて、そのまま黙ってしまった。
まるで予想外のエラーだったとでも言いたげに。
「なぜだ?」
怒ったように問い返され、わたしはこう答えた。
「わたしの夢はパティシエになることでした。お菓子づくりならなんでも好きで、どうしてもお菓子で世界一になりたかった。でも、だめで。ここでアイスを売っているのは、その名残というか……次に何をするべきか考えるための準備期間みたいなものだったんです。でも、このアイスでは世界一になれない」
彼は値踏みするようにこちらを見ている。
いつもの彼ではなかった。失望を感じる、どこか冷たいまなざし。
一瞬、竜巻に似た風が公園の中心に沸き起こって、消える。
そのせいか、風の色が変わったような気がした。
「何をするべきか、答えは見つからなかった。あなたはヘビロテしてくれてますけど、正直、食べていくには厳しい売上ですから……一度、リセットしようかと思って。ほら、王様がこの間、百年もしないうちに~、とか言ってたじゃないですか。あれを聞いて、百年もしないうちに死ぬのに、こんなところでくすぶってても仕方ないよなって思ったんです」
「チッ……クソが。そんなつもりで言ったんじゃねえ……」
彼はひどく焦ったようにそんなつぶやきを漏らす。
そして、しばらく考えたあと、すがりつくように言葉を発した。
「売上が」
「え?」
「売上が、ほしいのか」
理解しがたいとでも言いたげに、彼はそう問いかけた。
「ええ……理想だけでは食べてはいけない。売上、ほしいです。わたしの作るものが評価されいてるのだという証拠でもありますし」
「わかった。評価と売上がほしい、と」
……わかった? なにが?
彼は手を顎に当ててなにやら頷いている。
「クソに頼るのは癪だが、フルーレティに頼んでみる。こんなところでやめられては困るからな」
「え? フルー……なんですか?」
「お前を世界一のアイス売りにしてやると言っているんだ」
彼はからりと笑いながら言った。見開かれた目には強い光が宿っている。
その姿はどこか非日常的で、まるで悪魔の王様のようだった。
+++
「きょうは最近人気のジェラートショップにお邪魔しています! こちらのお店、なんとはじめは公園で出店としてオープンしたということなんですけれども、クチコミで人気が爆発。こんなに行列ができています!」
それから三ヶ月が経ち、わたしは多忙な日々に呑み込まれていた。
どういうからくりなのだろう。
彼の宣言通り、わたしの店は大盛況だ。今月、ついに公園の出店ではなく、実店舗を持つことに相成った。SNS時代だからクチコミが奇跡的に起爆剤になることはあり得ないことではないが、こうも急激に売れると不思議な気持ちになる。あの自称王様は、なにかとんでもない権力を持った人物だったのだろうか。アイス屋をバズらせる権力って、どんなものなんだろう……。わたしには想像もつかない。
当人は、店が売れはじめてからも、まったく変わらずにアイスを買いに来る。いつもどおりにたくさんアイスを頼んで、うまかったと笑って帰っていく。特に「俺がバズらせた」とは言わないあたりに、なんらかの秘密の存在を感じてしまうが……『フルーレティ』とはなんだったのだろうか?
「あの、王様」
と、店に来た彼に話しかけてみた。異様な呼び名に、周囲がすこしざわついたようだったが、名前を知らないので王様としか呼びようがない。
「ん? きょうもうまいぞ」
と言いながらカフェモカ味のジェラートを口に含んだ。幸せそうに笑んでいる姿にはとても癒やされる。わたしは小声で訊いた。
「わたしのお店を宣伝してくれたのって、王様なんですか」
「ん」
食べているのを邪魔するなとでも言いたげに、彼は片手でこちらを制した。食べ終わった彼は、目を細めつつ、こう答えた。
「俺様は何もしていない。トリガーを引いたのは俺様だがな」
「トリガーって……いったい、何をしたらこんなにバズるんです? ありがたいですけど、不思議で仕方なくて……」
「人間には知る必要のないことだ。ただ俺様は、つまらん理由で終わってほしくなかった。それだけだ」
彼はほんとうにそれ以上言うことがないらしく、そのまま帰ってしまう。
結局、何一つとして謎は解けなかった。
でも。
この状況を生み出してくれたのは、間違いなく、彼なのだ。
そう思うと、感謝が溢れて止まらなくなりそうで、わたしは後ろ姿に向かい、迷わず叫んだ。
「ありがとうございました!! 王様!!」
「また行くから、ちゃんと営業してろよ、なまえ」
はて、彼にいつの間に名前を教えただろうか。一瞬疑問がよぎったけれど、それよりも彼が応援してくれていることがすごく嬉しくて、全力で手を振った。
ニンゲンとは、一瞬だけの夢だから
20200626