星になれた
天気がいいので、ひさしぶりに都会へ出ることにした。数ヶ月ぶりに見るバンコクの街は、人であふれている。
ここ数日、テレビから流れるのはルンピニー・スタジアムからのインタビュー映像ばかりだ。このあいだまで、ムエタイのチャンプといえば『帝王』サガットであったが、彼が失踪してからは新たなチャンプが降臨し、スタジアムの新たな崇拝対象となっているようだ。ムエタイは国技とはいえ、ここ最近はギャンブルとしての側面が強く、俗っぽい印象もある。なかなか、女ひとりでの観戦はしに行きづらいものだ。
しかし、ただ俗っぽいだけでは、もちろんない。ムエタイチャンプは、この国の子どもたちの憧れの英雄でもあるのだから……。
そう、手の届くわけもない、遠い遠い英雄……。
複雑な気持ちで、テレビ映像を脳裏から振り払う。目的地はもうすぐそこだった。曲がり角の先にある、小さなカフェ。すこしこってりとした風変わりなチーズケーキが食べられる、と同じ村の知り合いに聞き、食べに来たというわけだ。
「いらっしゃいませ」
にこやかなウエイトレスに導かれ、席へとつく。持ってきた文庫本を机上に置き、目線を周囲に向けたそのとき……わたしは飛び上がりそうになるくらい驚いた。
隣の席に、見覚えのある『ムエタイチャンプ』が座って、珈琲を飲んでいる。
「ひゃっ!」
思わず大声を出してしまった。その人物が顔を上げ、こちらを向いた。
「ん? なまえか?」
その問いかけに、わたしはふたたび驚くこととなる。
「わ、わたしのこと……覚えてるの?」
そこにいたのは、現役ムエタイチャンプにして、ルンピニー・スタジアムの新たなる『王』……アドン。
彼は、このわたしの幼なじみだ。
「忘れようとしても忘れないだろうな、きさまのような間抜け面は」
にやりとしつつ、彼はそんなふうに返した。こういう、小憎たらしいところは昔からそのままだ。ムエタイファンのなかにも、彼の悪人面が気に食わない人間は多かったと聞く。最近では、そういう輩は彼の強さによって黙らされているようだが。
彼がわたしを覚えていたのは、とても意外だった。というのも、彼とはもう十年以上会っていなかったのである。同じ村の出身で、子どものころはよく顔を合わせていたけれど、彼は昔からムエタイでトップを取るということに異様に執着していて、わたしのことなんて眼中にはなかった、ように見えた。
「すごいじゃない。あなたはいまや、この国のヒーローだよ。同じ村の人間として、誇らしい」
「そりゃどうも」
彼は涼しい顔で珈琲をすすった。それくらいの賛辞は言われ慣れている、当然だ、と言いたそうだ。
「もう、星になったみたいな感じで……手の届かない人だって、毎日思ってた」
彼がヒーローとしてどんどん大きくなっていくあいだ、わたしは村から出ることもなく、だらだらと凡庸に暮らしていた。たまに、たまったお金でこうやってバンコクに来て贅沢をするくらいで、あとはごくごくふつうの人生。正直、かなわないなあ……と思っていた。きっと、わたしのことなんて忘れているはず、とも。
「『星になった』だと? 『手が届かない』だと? ふざけるなよ」
彼は急激に怒りをあらわにし、尖った目でこちらをにらみつけた。
「こんなものではまだまだなんだよ。もっと知らしめなければ気が済まん」
「えっと……国内一位では物足りないの?」
彼はムエタイ界のチャンピオンだ。ムエタイの世界には、もうこれ以上の称号はない。行方不明の元王者・サガットを破るという目標ならばあるかもしれないが、彼はどこにいるともわからない。この世界では死んだような人間である。
しかし、彼は手の色が白くなるほどに拳を握りしめ、こう言った。
「当然だ。世界には強者がたくさんいる。ま、全員、このおれさまよりはショボいがな。その全員を負かし、ムエタイが最強であると証明するのが、王者の義務だ。だから、手の届かない『星』になったなんてのはまだまだ早い」
「じゃあ、……まだ、手が届くってこと?」
思わずそう問いかけていた。
わたしは、寂しかったのだろうか。
ずっと近くにいた彼が、遠くへ行ってしまったのが。
「知れたこと。そんなの、触れてみればわかるだろうが。自分で確かめてみやがれ!」
彼は自分の手を開いて、わたしのほうへと思い切り突き出した。
おそるおそる、その手をにぎった。
あたたかい、人のぬくもり。骨ばった手の輪郭は、彼が大人の男の人になったのだということをわたしに伝えてくれた。
『ムエタイの神』だなんて聞いて、彼を恐れていたけれど。
そこにいたのは、昔と同じ彼だった。
「手が、届いた」
「当たり前だ。次にふざけたことを言ってみろ、このひざが物を言うぞ」
にっと悪人っぽく笑って、彼はそんなふうに茶化した。
「いや、プロ格闘家のひざはちょっと」
「……きさまが相変わらずの能天気顔で安心した」
「えっ?」
ぽかんと口を開けてしまう。
「そう、その間抜け面だ。ちっとも変わりやしねえ。こっちがどれだけ必死に上を目指していようと、いつだって横からごちゃごちゃとやかましく言ってきて」
そんなふうに思っていたのか……。
「だが、そんな能天気なやつがいるおかげで気づけることもある」
「なにに、気づいたの?」
わたしが問いかけても、彼は答えなかった。ただ薄く微笑むだけ。
「教えると思うのか?」
「……思わないけど」
そういう肝心なことを、彼はいつだって言わなかった。
子どものころからずっと。
そんな彼は窓の外の快晴をじっと見つめて、ぽつりとこうこぼした。
「なまえ、おれさまは月曜日のこの時間はここで過ごすことにしている」
「うん」
「……いま言いたいことは、それだけだ」
それは……またここへきてもいいということだろうか?
たぶん、そうなんだろう。
回りくどいんだか、逆にわかりやすいんだか……。
彼のそういう、ひねくれすぎて逆に素直なようなところを、むかしからなぜか好ましいと思っていた。
ふとカップから顔をあげると、あのころよりもずっと大人びた顔をして、彼が窓の外をじっと見つめつづけていることに気がついた。彼のカップはだいぶ前に空になっていたようだ。カップが空なのに、まだ席を立たないでそこにいる彼の内心を想像して、わたしは薄く微笑んだ。先ほどの彼と同じように。
20190408