彼は黄昏

 神田駅からすこし歩いたところにある居酒屋の前で、灰色のパーカーを着た男がたたずんでいた。彼にはこういった風景が似合う。渋谷や池袋といった賑やかで俗っぽい町並みから離れた、大人の渋みの感じられるような町にこそ、彼のすすけた背中は馴染むのだ。紫色に暮れた空すらも、彼に付き従う舞台装置のようだった。
 わたしの存在に気づいて、彼はこちらを見た。
「やあ……嬢ちゃんじゃねえか。ここは子どもの来るところじゃぁねえぜ」
「子どもじゃないってあれほど言ったじゃないですか。これでも、二十歳なんですよ」
「二十歳なんてぇのは子どもと一緒だね」
「一緒じゃありません!」
「それがわからないのが、ガキの証拠」
 もっともらしことを言いつつ、彼はにっと昭和っぽく笑った。
 一応強がってはみたものの、実際、わたしは子どもだと思う。
 まだ大学生だし、彼のように凛々しくお酒を飲むことなんてできそうもない。飲むのはチューハイや梅酒、そして安物のワインばかり。
「そういう力石さんだって、こんな時間からお酒ですか? 大人げないですよ」
「飲みたいときに飲む。それが漢ってもんだ」
 堂々と言う彼を見ていると、わたしもこういう大人になりたいような気がしてくるから不思議だ。
わたしが黙ってしまったので、今度は彼から質問が飛んだ。
「神田にはよく来るのかい?」
周囲を見回してから、わたしは照れたように笑う。
「昔から、ここは好きなんですよ。カレーの匂いと、古本の匂い。行き交うサラリーマン。とっても落ち着くんです」
 彼は親しげに頷いて、こう返した。
「年寄りみたいなことを言うねぇ」
「年寄りみたいだから、力石さんと気が合うんですよ」
「は、こりゃ一本取られたな」
 一本取られたと言いつつ、そんなことは微塵も思っていないという口調だ。彼のこういうところが心地よい。
「せっかくだ。一緒に飲むかい?」
「いいんですか!?」
 人参を目の前にたらされた馬のようなわたしに対して、彼は冷静にツッコむ。
「そういうところがガキだな」
 そのとおりだったので、ぐうの音も出なかった。

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 コツンコツンと、コップを動かす音が妙に大きく聞こえるほど、店内は静かに感じられた。彼が隣りにいるせいかもしれない。
「嬢ちゃんを見てると、本郷さんを思い出すねえ」
「本郷さん、ってどなたですか?」
 ニ杯目のチューハイですでに朦朧としてきた意識のなか、わたしは問い返した。
 彼は日本酒を煽りつつ、こう答える。
「愉快な知り合いだ。嬢ちゃんみたいに、ガキっぽい」
「愉快とかガキとか、わたしにも本郷さんにも失礼ですよ」
 力石は呆れたような顔をした。
「本当のことだし、ガキが悪いとも言っていない。失礼もへちまもねえ」
「…………」
 本郷さんという人がどんな人かはわからないが、わたしがガキなのは事実なので、何も言えない。
 彼に何かを断言されると、どうにも言い返す気力が削がれる。あまりに自信満々な態度が、相手の戦意を喪失させるのかもしれない。
 本郷という人も、こうして白旗を揚げているのだろうか。男か女かもわからないのに、ちょっと親近感がわいてしまう。
「まあ、嬢ちゃんは本郷さんよりも素直かもしれねえ」
「いったいどんな方なんですか、その人。女の人ですか?」
 なんとなく、ツンとした感じの赤いハイヒールの女性が浮かんだ。
 素直じゃない、わたしに似ている、という情報しかないのだけれど。
「いい年の男だ。いつもトレンチコートを着ている」
 ……変質者みたいな格好の人だ、と思ってしまった。
 その下に何も着ていないようなおじさんの姿が浮かんで、あわてて打ち消した。力石の知り合いがそんな人間なはずはない。
 変な想像をしてしまったので、反省しながらフォローしてみる。
「い、いかしたファッションの方ですね」
「まあ、遠目に見てもすぐにわかるという意味では、いかしてるね」
 さらりとした答えが返ってきた。こちらが必死になってばかりで、ばかみたいだ。
「お友だちなのですか?」
「向こうはそう思っちゃいねえだろうな」
 クエッションマークが三つほど浮かんだ。いったいどんな関係なんだろう。
「おっと、もう酒は打ち切りだ。特に嬢ちゃんは、これ以上飲んじゃいけねえ」
 急に、彼はそう言って、デザートを二品頼んだ。
「どうしてですか? わたし、まだ飲めますよ」
「嬢ちゃんみたいな若い子は、帰れなくなるまで飲んじゃいけねえに決まってるだろう。どうしても飲みたければ、家で鍛えてからにするんだな」
 妙に、冷たい響きをもった言葉だった。彼らしくない。
「……怒ってるんですか?」
「怒っちゃいねえさ。呆れてはいるかも知れねぇがね」
 ニヒルな笑みを浮かべつつ、彼は自分の酒を飲み干す。もう、帰るつもりらしい。
 その酒がなくなって、デザートも食べ終わってしまったら、ほんとうに帰らなくてはいけなくなる。
 わたしは、そうなるのを恐れているのかもしれない。
 できるだけ長く、一緒にいたいから。
「ガキはいつもそうだ。背伸びばかりは一人前で、そんなことばかりしてるうちに、おとなになっちまう」
 デザートは美味だったがかなりの小盛りで、すぐになくなってしまった。
 彼が立ち上がる。その手には、二人分の伝票。むろん、奢られるような間柄ではない。こうしなければわたしが店から出ないかもしれないから、いつも彼が持っていってしまうのだ。店を出てから、わたしの分を彼に払うことにしている。
「ほら、嬢ちゃん。はやくしねぇと奢りになっちまうぜ」
「ま、待ってください。今、コート着ますから」
 あわててコートを着て立ち上がる。そのとき、ふんわりとした心地よいめまいが、一瞬だけわたしを襲った。いつだって、こうして立ち上がってから、自分でも気づかないうちに、かなり飲んでいたのだということに気づくのだ。彼はそれをわかっているから、せかすのだろう。彼がどうしてそこまで細やかな気遣いをしてくれるのかはよくわからない。が、恋情ゆえなどという陳腐な理由でないのは確かだ。きっと、彼は女性が相手でなくても、そういった気遣いをしてくれるに違いない。
「力石さん、ありがとうございます」
 わたしは、彼に自分の分の料理代を払いつつ、礼をした。
「こちらこそ、きょうはありがとな。また、いつかどこかで」
 風に吹かれて去っていく後ろ姿が、ボクサーのようだ。相変わらず、かっこいいけれど、どこか渋い。
 連絡先なんて知らない。住んでいる場所も知らない。しかし、いつかどこかで会える。
 そんな確信が、常にある。本郷という人も、やはり、そういう確信とともに彼を見ているのだろうか。
「力石さーん! また、呑みましょうね!」
 小さくなっていく灰色のパーカーの背に向かい、そう呼びかけてみた。
 彼は返事をせず、さっと右手をあげて答えた。最後まで、昭和のアニメみたいな姿だった。
20160507